文筆家はBARにいる。バーマスター、林伸次が諦めたこと、諦められなかったこと

2022年1月5日

5.8万人のフォロワーを持つバーのマスター

そのバーは、渋谷の喧騒が噓のような裏道に、ひっそりとたたずんでいます。しっとりした照明のなか、ボサノヴァが静かに響く「BAR BOSSA(バールボッサ)」です。

1997年のオープンから24年間、この店のオーナー、マスターとしてカウンターに立ち続けている林 伸次さんは、文筆家でもあります。バーを舞台にしたさまざまな人間模様や見聞きしたアレコレを独自の視点で綴るエッセイをメディアプラットフォーム「note(ノート)」に毎日投稿し、フォロワーは約5.8万人。また、雑誌やウェブメディアにも寄稿し、著書もこれまでに7冊出版しています。

渋谷のバーのマスターはなぜ、人気エッセイストになったのでしょうか?その歩みを辿ります。

ヘビメタバンドのボーカルだった高校時代

1969年、徳島県徳島市で生まれた林さん。母親が絵本を出版する会社に勤めていたこともあり、自宅にはたくさんの本が並んでいました。「漫画以外ならいくらでも本を買っていい」というルールがあって、自然と本を手に取るようになりました。

小学校高学年のころから、音楽もよく聞くように。プロデビューを目指して本格的にバンド活動をしていた3歳上の兄の影響もあり、思春期にはすっかり音楽に夢中になっていました。現在の柔らかな物腰からは想像もつきませんが、高校時代には、ヘビーメタルバンドのボーカルとして、活動していたそうです。

「はじめはベースだったんです。でも地道に練習することができなくて、メンバーみんなで合わせる時に『お前、できてないじゃん、ボーカルやれよ』って言われて。そのころは楽器やるのがかっこいいと感じていた時期で、みんなボーカルをやりたがらなかったんですよ(笑)」

大学受験を控えた高校3年生の時、村上春樹の『ノルウェイの森』で心を鷲づかみにされ、それをきっかけに村上春樹が7年間在籍した早稲田大学を受験。第二文学部に合格しました。

入学してすぐ、多くのプロを輩出していたバンドサークルに入会。自分も本気でバンドをやろうと思っていた時に、小山田圭吾さんや小沢健二さんが参加していたバンド「フリッパーズ・ギター」の曲を聞いて、プレイヤーとしての熱が一気に冷めてしまったと言います。

「あまりに実力が違い過ぎて、イヤになってしまったんですよ。こんな人たちがいるなら、僕がバンドでやることないなって」

レコードショップで運命の出会い

それでも音楽には携わりたい、仕事につながるなにかを得られるかもしれないと、20歳の時、大学を辞めてロンドンへ。当初は「2、3年滞在して、音楽の仕事を覚えよう」と意気込み、語学学校にも通っていました。ところが、度重なる人種差別に嫌気がさして、わずか2カ月で帰国します。

日本に帰ってきてから、アメリカの大学に行こうとお金を貯め始めるものの、これも途中で断念。自分には何かしらの才能があると信じ、「何者かになりたい」と願いながら、ただフラフラとしていた林さんは、ある日、ハッと気付きました。

「兄は友だちとユニットを組んでいて、デビュー寸前までいったんですよ。でも、恋人と結婚しようとしたら相手の親に『会社員じゃなきゃだめ』と言われて、音楽をやめて就職しました。その後、ユニットを組んでいた友だちは音楽プロデューサーになって、すごく有名になったんです。その話を聞いて、音楽が好きで仕事にしたいなら、音楽の現場にいなきゃと思ったんですよね」

22歳の時、かつて「カルチャーの発信地」と評された六本木のレコードショップ「ウェイヴ(WAVE)」ではたらき始めると、間もなくして「独立してレコード屋をやろう」と思い立ちます。その勉強のためにレコードショップのビジネスについて学ぼうと、輸入盤や中古レコードも扱っていたレコードショップ「RECOfan(レコファン)」に移りました。

立場はアルバイトでしたが、職場は店舗ではなく本部。そこで出会ったのが、社員として上層部にいた現在の妻です。お互いにブラジル音楽が好きで意気投合し、林さんが惚れ込んでからは1カ月間、毎日ラブレターを書きました。

その情熱が実って付き合い始め、しばらくのちに結婚。二人の将来を考え時、妻から「バーをしない?」と提案されました。

「レコファンではたらき始めてから、レコード屋は薄利多売で新品を売っているだけでは儲からないと知りました。だから中古とか海外で買い付けたもので稼ぐんですけど、それにはかなりの資金が必要で。自分にはできないな、どうしようかなと思っていた時に、妻から『ブラジル音楽がかかっていて、ライブがあったりDJがいるようなバーをやろう』と言われて、それもいいなって」

下北沢のバーで学んだこと

レコファンをやめた林さんは、ブラジル料理のレストランではたらき始めました。そこで気づいたことは、2つ。ひとつは、「近所の居酒屋やワインバーにはしょっちゅう行くけど、ブラジル専門店はリピーターを作りづらい」。もうひとつは、「ブラジル人同士のケンカは命がけ」。リピーターが少ない上に、酔客がケンカになるたびに流血沙汰では商売になりません。

そこで、「日本人向けの落ち着いた層を狙おう」と方向転換。そのころ、ボサノヴァが流行り始めていて、妻がワイン好きだったこともあり、ワインとボサノヴァのバーにすることにしました。

バーを始めるには、その仕組みを知らなければなりません。林さんが次にはたらき始めたのは、下北沢の「フェアグランド」。1989年に開店したバーで、飲食業界では知らぬ人のいない飲食店プロデューサー、中村悌二さんがオーナーでした。

現在はプロデューサーに徹している中村氏も当時は店にいて、二人でカウンターに立つこともありました。中村さんからは「お酒の作り方よりも、接客がすべて」だと教わりました。吸っているタバコの銘柄や、お店のどこに座るかでお客さんがどんなタイプかを見分ける術など具体的で役立つ話も多かったそう。このバーで得た学びは、今も林さんの血肉になっています。

「今でも覚えているのは、バーっていうのは雰囲気なんだよと言っていたことです。出すお酒にこだわるとかじゃなくて、いい雰囲気のなかで気持ちよく飲めて、帰る時に思ったよりお会計が安いと思えたらもう1回、絶対に来るからって。今も、まさにその通りだと思いますね」

音楽関係者が集う人気店に

1995年から2年間、中村さんのもとでバーのイロハを学んだ林さんは、独立に向けて動き始めました。どんなバーにするのか、参考にしたのは下北沢の老舗喫茶店「いーはとーぼ」です。1977年創業の音楽喫茶で、店内ではレコードや本が売られていて、かつて山下達郎や坂本龍一も通っていたことで知られます。

「ちょうどそのころ、僕が好きな村上春樹はおしゃれな文化人になっていて、雑誌のブルータスに出たり、ジャズのレコードのライナーを書いていたんですよね。その姿を見て、僕もブルータスに出たい、ライナーを書きたいと思ってたんですよ(笑)。「いーはとーぼ」はブックカフェのはしりのような店で、オーナーがジャズを中心とした音楽ライターをしていたから、目の前の目標として『これしかない!』と思いました」

1997年、渋谷の宇田川町に「BAR BOSSA(バールボッサ)」をオープン。「音楽関係者が集まる店になってほしい」と願いながら、店内にボサノヴァのレコードを置きました。

フェアグランドの先輩の助言もあり、自分が好きな雑誌、飲食店を紹介する雑誌などに「開店のお知らせ」を送ると、立て続けに取材が入りました。そのころ、ボサノヴァに特化したバーはまだ都内になかったこともあり、雑誌に掲載されると大勢の音楽関係者が足を運ぶ店になったのです。

音楽関係者は流行に敏感な人が多く、ファッショナブルなので、すぐに「おしゃれな人が集うお店」として知られるようになり、予想をはるかに上回るお客さんが来るようになりました。

カフェや居酒屋と違い、バーでは一度のお会計で数万円になることも珍しくない。そのころは朝4時まで営業していて、閉店時間まで飲んでいる人たちがたくさんいた時代だったから、「すごく忙しかったけど、すごく儲かった」そうです。

読み物としても面白い個性のある文章を

バールボッサの売り上げが絶好調だったこともあり、2店舗目を出そうかと考えたこともありました。しかし、「人を雇っても仕事を任せられないし、お金のことを考えるのも得意じゃない」という理由で、1店舗だけでやっていくことを決めます。

その後の2001年、林さんはブラジルに住んでいる友人にレコードを送ってもらい、オンラインで販売するサイト「BOSSA RECORDS」を立ち上げました。インターネットの普及によって、レコファン時代に学んだ儲かる仕組みがオンラインで実現できるようになったこともあり、輸入したレコードを売ることにしたのです。その際、音楽ライターをしていた「いーはとーぼ」の店主のはたらき方に憧れていた林さんは、自分の得意をいかして音楽のライターを目指すことに。

音楽ライターになるために何をすればいいのかわからなかった林さんは、このビジネスを音楽ライターの仕事につなげようと考えて、レコードの紹介文に力を入れます。どういうアーティストで、どういう曲が入って、どういう背景があるアルバムなのか、詳しく書きました。レコード屋ではたらいていた経験があったから、どういう紹介文を書けばお客さんが喜ぶのかわかっていたのです。

オンラインショップで扱うレコードは、日本では手に入らないものを選定。音楽関係のオンラインショップ自体がまだ珍しい時期だったので、間もなくしてブラジル音楽のファンや関係者が注目するようになり、ブラジルで1枚数千円のレコードが数万円で売れるようになりました。そのうちに、レコードを買わなくても紹介文を読みたくてサイトを訪れる人も増え始めました。

そうして少しずつ林さんの文章力が知れ渡っていき、目を付けた出版関係者から、ひとつ、ふたつと音楽の仕事の依頼が入るように。レコードの批評やライナーノーツ(レコードやCDについている解説文)を書く時、林さんが意識していたのは差別化です。

「データだけを書く人がいる一方で、たまにその音楽を聞くまでに至ったエピソードをエッセイ風に描く人がいたんです。僕はそういう批評やライナーを読むのが好きだったから、自分の思い出も描くような、読み物としても面白い個性のある文章を残そうと思っていました」

音楽ライターは作家になるための第一歩と考えていたし、なにより好きで読んでいた雑誌や敬愛するアーティストのレコードに自分の文章が掲載されるのがうれしかったから、どんな短い原稿でも妥協なし。バー営業が始まる19時まで、林さんは駆け出しの音楽ライターとしてパソコンに向かいました。

そのうち、ひっきりなしに依頼が来るようになり、1、2年も経つと音楽ライターの仕事も軌道に乗りました。お店も順調だったし、オンラインショップのレコードも売れていて、順風満帆で全速前進。ところがそれも、長くは続きませんでした。

35歳を過ぎてから訪れた変化

最初の異変は2005年、35歳を過ぎたあたりから起きました。それまでは音楽に精通しているという自信があり、日本でどんな音楽が流行るのかを予測して当てることができたと言います。ところが、唐突に新しい音楽への興味が薄れてしまったのです。

興味を持てない音楽を聴き続けるのは、苦痛です。次第に、流行の予測も誰かの後追いになっていきました。それでも仕事の依頼は途切れなかったのですが、自分のなかで納得できず、区切りをつけました。

「若い時、新しい音楽をわかってないのに偉そうにしてる大御所の音楽ライターが大嫌いだったんですよ。自分もそっち側になっちゃったんだなと思って、寂しかったですね。それで、若者に席を譲ろうと思って、40歳ぐらいから新しい音楽の原稿は断るようにしました」

苦しい時期の一手が人生を変えるきっかけに

2009年、林さんが40歳の時。前年の9月、世界規模で起きた金融危機、リーマンショックが原因でお店のお客さんが急減しました。

それまで会社の経費で飲んでいたお客さんが来なくなり、朝4時まで飲んでいたお客さんもぱったりと途絶えて、売り上げが半減。1年が過ぎてもなかなか客足が戻らないなあとため息をついていた2011年3月、東日本大震災が起きます。震災直後の自粛モードが明けても、以前のように朝まで飲む人はいなくなっていました。

バーの利益率が高いことに加えてお店の家賃が安いこともあって、廃業を考えるレベルではありませんでした。しかし、なにも手を打たなければじり貧状態から抜け出せません。林さんは、少しでも売り上げを伸ばそうと営業時間を深夜12時までに切り上げてランチタイムの営業を始めました。さらに、Facebookの店舗ページを通してお店のことを発信し、興味を持ってもらおうとエッセイを毎日投稿するようになりました。

最初のころはワインや音楽について書いていたのですが、「いいね!」を押してくれる人はあまりいませんでした。そこで、バーで見聞きした恋愛話や自分の経験をもとにした飲食店の経営について書くようになると、驚くほどの「いいね!」がつきました。これが読者の求めるものなのかと気づいてシリーズのように書き連ねていくと、爆発的に読者が増えていったのです。

そしてある日、お店に来た知り合いの編集者から「Facebookのあの文章を、本にしませんか?」と声をかけられました。そうしてできた本が、2013年11月に発売された『バーのマスターはなぜネクタイをしているのか?僕が渋谷でワインバーを続けられた理由』です。

10年以上前からの常連ながら、それまで一度も話したことのなかった著名な編集者で、コンテンツ配信サイト「cakes(ケイクス)」を運営している加藤貞顕さんから、「cakesに書きませんか?」と誘われたのも、出版のオファーとほぼ同じタイミング。「ぜひ!」と書き始めた「ワイングラスのむこう側」も、後に書籍化されました。

続けていたら順番が回ってくる

2014年4月6日、いつものようにカウンターに立っていた林さんは、cakesの連載を通して仲良くなっていた加藤さんから「明日から凄いものが始まりますよ」と言われました。加藤さんの言う「凄いもの」とは、個人のエッセイなどを投稿し、販売もできる「note(ノート)」でした。

前日に話を聞いていたこともあり、林さんはそれまで毎日Facebookで更新していたエッセイを、すぐにnoteへ移行。お店のFacebookページから、noteという誰もがアクセスできるプラットフォームに移ったことで、林さんのエッセイは圧倒的な人気コンテンツになりました。

前述したように、現在はnoteのフォロワーが約5.8万人。ほかに雑誌の連載などもしており、今ではお店の収入よりも執筆で得る収入のほうが多くなったそう。2018年には初めての小説『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』を出版。2021年11月には、サッポロビールのコラボレーションで、2作目となる小説『HOP TRAVEL ハラタウ-1000年の土地-』を書き下ろしました。

高校時代に『ノルウェイの森』を読んで以来、林さんの胸のうちにはいつも村上春樹がいました。東京でジャズ喫茶のマスターをしていた時に小説家としてデビューし、瞬く間に人気作家となった村上春樹がロールモデルだったと言います。それもあって、コロナ禍で営業すらできなくなった時、「バーをやめて小説で食べていこうか」という考えが脳裏によぎったそう。しかし今はまた考えが変わり、定位置のバーカウンターに戻りました。

「親しい人たちに『絶対にやめるな、お前は村上春樹じゃない』と言われて、それもそうだなと我に返りました(笑)。振り返ってみればバーに来たお客さんから仕事をもらうことも多いし、今はお客さんからエッセイのネタになるような話を教えてくれるんですよ。そのためだけにでもバーを開けなきゃなって。このビルは僕と同じ年なので、これからもエッセイや小説を書きながら、このビルが潰れるまでお店を続けようと思います」

(文:川内イオ 撮影:小池大介)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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