16歳で両足切断の葦原海さん、車椅子モデルとしてパリコレ出演する理由。

2024年5月15日

「主役はぜんぜん興味ないんですよ。オフィスのワンシーンに出てくるOL役とか、学園もののクラスメイトの一人とか、あえて見ようと思っているわけじゃないけど、自然と目に入るみたいな役がいいですね」

SNS総フォロワー数70万人を超えるモデルの葦原海(あしはらみゅう)さん。過去のインタビューで「もしドラマに出るなら、脇役で」とコメントしていたことについて質問すると、笑顔でこう答えました。「車椅子の人」が必ずしも主役のような特別なキャラクターではなく、むしろ当たり前の存在としてそこにいたいと願っているのです。

「私が出るドラマを大人が観たら、『車椅子の人』に注目するかもしれません。でも、子どもたちにとって当たり前の景色になっていたらいいなって」

2014年、16歳の時に交通事故で両脚を失った葦原さんは今、車椅子で生活しています。パリとミラノのファッションウィークでモデルに起用され、MISIAのアリーナツアーで車椅子バックダンサーを務めるなど華やかに活躍する彼女が脇役を望むのは、実現したい未来があるから。

驚くほどにまっすぐなその思いは、どのように育まれ、どのような未来に向かうのでしょうか?

「大道具」の仕事に憧れて

葦原さんは1997年生まれ、名古屋出身です。小さなころから菓子づくりや工作、絵を描くのが好きでした。そんな穏やかに過ごしてきた女の子の人生が一変したのは、小学校5年生の時です。父親の仕事の都合で引っ越した千葉県の小学校で、言葉のイントネーションの違いを発端にいじめが始まりました。

「靴に画びょうを入れられたり、教科書に落書きをされたりしていました。雪が降った日には、長靴に雪が詰められていましたね」

完全に孤立していたわけではなく、休み時間や放課後に話す友人のような子はいました。ただ、その子は矛先が自分に向くのを恐れ、いじめの現場を見ても助けてくれるわけではありません。「友だちってなに?」という疑問は人間への不信感となって、葦原さんの胸の奥底に沈んでいきました。

このころ、言葉のイントネーションを少しでも直そうとドラマを観るようになりました。ドラマが好きになり、年末、ドラマのNG特集を眺めていたら、たまたまドラマのセットの裏側ではたらいている人たちの姿が映ります。気になって調べてみると、「大道具」と呼ばれる仕事だと分かりました。もともと手先を動かすことが好きだった葦原さんは、大道具に憧れます。

手先が器用で、今もものづくりが好きだという葦原さん

「テレビを観た時、セットチェンジをしたりしていて、一つの空間をいろいろつくり込んでいるのがすごいなって思ったんですよね。ドラマってワンクールで終わるから、3カ月、4カ月でつくるものも変わるし、大道具って楽しそうだなって思いました」

中学校に上がり、環境が変わるといじめは落ち着きました。ところが、再び引っ越すことになり、千葉県内の新しい中学校に入るとまた風向きが変わります。転校生として疎外感を感じたり、クラスの生徒にいじられたりと、再び憂うつな生活が始まりました。

心休まらない日々の中でも学校には通い続けました。それは、大道具の仕事に就くために行こうと決めた専門学校があったからです。

その専門学校に行くには、まず高校に進学する必要があります。勉強が得意ではなかったから、せめて内申点を良くしようと皆勤賞を取りました。目標を決めたら、逆風の中でも歩みを止めない。それは中学生の時から今も変わりません。

両脚がないことを知った日

交通事故に遭ったのは2014年、高校1年生のときでした。今もその日の記憶はないと言います。事故から10日後、一瞬だけ目が覚めました。その時、ベッドサイドに両親と医師がいて、「分かる?」と聞いてきた母親に頷いたことだけは覚えているそうです。

両脚がないことを知ったのは、入院から1ヵ月後。ベッドの上でシーツを直した時に、気が付きました。それだけ時間がかかったのは、「骨盤にひびがあるから動かないように」と指示されて寝たきりの状態だったことに加えて、事故前と変わらない脚の感覚があったから(幻肢と言います)。

診察に来た医師に脚のことを確認すると、「またちゃんと説明させて」と言われました。病室には鏡もないし、身体を起こすこともできず、自分がどんな状態か分かりません。医師の反応を見て、悪い想像が膨らみます。

翌日、両親立ち合いのもとで医師から説明を受けました。事故直後、脚の傷口から菌が入ってしまうと命の危険があったため、脚を切断するしかなかったと聞ききましたが、ショックは受けませんでした。

「何がどうなっているのか分からないほうが、いろんなことを考えてしまうじゃないですか。もしかしたら顔も酷い状態なのかもしれないとか、体を起こせなくなるかもしれないとか。だからスッキリした気持ちが強くて、足だけで良かったと思いました。それに、脚がない人を見たことがなかったし、どういう生活をしているのかも知らなかったから、脚がないと言われても、何が大変なのか思いつかなかったんですよね」

想像したより、酷い状態じゃなかった。それをポジティブに受け止めた葦原さんは、入院から半年後に始まったリハビリにも励みました。ほとんど身体を動かしていなかったこともあり、上半身の筋肉はずいぶんと衰えていました。当初は、500ミリリットルのペットボトルを20回持ち上げることもできなかったと言います。その状態から筋肉をつけ、自力で床から車椅子に移る動作ができるようになるまでに、3ヵ月間。リハビリはハードでしたが、めげることはありませんでした。

「自立できないとヘルパーをつけながら生活することになるんですけど、私はそれが想像できなかったんですよね。だから、リハビリが辛いとかしんどいっていうより、早くなんでも一人でできるようになりたいっていう一心でした」

違和感の正体

リハビリ専門の病院に移ってから4ヵ月後、退院。車椅子での生活が始まりました。歩道の段差を乗り越えるのに苦労したり、エレベーターの場所を探すのに手間取ったりと不自由を感じながらも、葦原さんは解放感を楽しみました。専用の車椅子が届く前に、大好きなディズニーランドにも行きました。

一通りのことは、自分でできます。それでもエレベーターのない高校に復学するのは難しく、やむを得ず退学して特別支援学校に移りました。大道具の職に就く夢も、遠ざかっていきました。中学生の頃から進学したかった大道具の専門学校は、車椅子の生徒を受け入れていなかったのです。

それでも「いつか大道具に」という思いは揺るがず、2016年、将来役に立つだろうと、東京にあるウェブデザインの専門学校に入りました。授業では、イラストレーターやフォトショップの使い方を学びます。もともとパソコンでの作業が得意でなかったこともあり、「自分には向いていない」と感じるようになりました。

学校は1年制で、入学から数ヵ月後には就職活動が始まります。どうしようかと悩んでいたタイミングで、NHKの番組が主催するファッションショーに出ないかと知り合いから声をかけられました。その番組は2020年に予定されていた東京パラリンピックに向けて企画されたもので、ファッションショーにはほかの障害を持つ人たちも参加することになっていました。葦原さんは、「番組制作の裏側が見たい!」と参加を決めます。

NHK主催のファッションショーに出演した葦原さん

おしゃれが好きな葦原さんは、当日の衣装合わせやヘアメイクに心躍らせました。舞台裏で慌ただしく動き回るスタッフの動きにも見入りました。それは初めて体験する有意義な時間でしたが、ステージから会場を見渡した時、気になることがありました。観客席にいたのは、障害者の家族や福祉関係者、番組やショーの関係者ばかり。番組放送当日、この違和感の正体に気付きます。

「視聴者からSNSにコメントが届いたんですけどみんな福祉関係の人で、なんでそういう人からしかコメントが来ないんだろうなと思って。パラリンピックやパラスポーツの認知を高めるためのイベントだと聞いていたのに、そもそも障がい者やパラリンピックに興味関心がない子たちに響いていない。それが腑に落ちませんでした」

「架け橋」になるために

中学生の時も、入院している時も、退院してからも自分が定めた目的地に向かって着実に歩みを進めてきた葦原さんにとって、目標は達成すべきもので、課題は解決するもの。就職活動を通して大道具の仕事に就くのは現実的に難しいとわかっていたこの時、大きな目標ができました。

障害者と健常者の間に距離があるのなら、私が架け橋になろう。そのための手段として必要なら、自分が表舞台に立とう。

葦原さんは、後日行われた番組の打ち上げから動き始めます。番組制作に携わったスタッフやステージを取り仕切ったスタッフと意識的にコミュニケーションを取りました。その際、演者の一人として率直な感想だけじゃなく、「架け橋になりたい」という思いや「もっとこうしたら良くなるのでは?」とアイデアも話しました。

まだ十代の女の子が、真剣に訴えかけてきます。その姿に心を動かされた大人から、少しずつ仕事が舞い込んでくるようになりました。それは地域で開かれるフェスの司会など小さな仕事から始まりましたが、葦原さんは一人でバスに乗り、電車に乗り、体当たりで仕事に臨みました。そして、行く先々でスタッフや関係者に感想、想い、アイデアを伝えるようにしました。

同時進行で就職活動も続け、テレビ関係の会社から内定を得ます。入社の1ヵ月前、新入社員が会社に集まる機会があり、その時、人事の担当者に相談しました。

「モデルの仕事をやっています。入社後も続けたいと思っているのですが、大丈夫ですか?」

葦原さんの活動を社会貢献と捉えた会社側は、副業を認めてくれました。これで、思う存分に活動できます。葦原さんは本業と向き合いながら、あちこちに出向きました。学校で講演する時には、有給休暇を取りました。どこに行っても忘れず、感想、想い、アイデアを伝えました。

プライベートでも、積極的に異業種交流会やイベントに足を運びました。いろいろな仕事をしている人と話すのが好きだったから、交友の輪も自然と広がりました。やがてそこで知り合った人たちからも、仕事の連絡がくるようになっていきます。

「暇つぶし」で始めたTikTok

2018年、社会人2年目に入ると、それまで各地で蒔いた種が芽吹くように、仕事のオファーが増えてきました。そこで、腹をくくります。

「その時20歳だったので、挑戦するなら今しかない、若いうちなら失敗してもやり直しできるだろうと思って、会社を辞めました。会社員をしていた時は実家に住んでいたので、仕事を辞めてもすぐには困らないだけの貯金もあったし」

会社員を辞めてフリーランスになったことで、よりどん欲になりました。地方のイベントに呼ばれた時は、自分でお金を出して4、5日間、現地に滞在。ツテをたどって人を紹介してもらったり、会食をしたりして、顔見知りを増やしていきました。

20歳にして、このビジネスマインドはどこからくるのでしょう?誰か年長者から教わったのですか?と尋ねると、首を横に振りました。

「ぜんぜんそんなことはありません。私は、人と知り合うことにまったく抵抗がないんです。私の考えに共感してくれて、一緒に楽しんで想いを実現できる仲間がたくさんいたらいいなと思って」

近づいてくる東京オリンピック・パラリンピックも、強烈な追い風になりました。さまざまな市町村や学校、企業が、SDGsや多様性をテーマに講演やイベント出演を求めてくるようになったのです。

その勢いに水を差したのが、新型コロナウイルスのパンデミック。2020年の春ごろから、予定していた仕事がほぼすべてキャンセルに。当時はまだオンラインイベントは主流ではなかったから、あっという間にすることがなくなりました。

手持ち無沙汰にしていたある日、知り合いの起業家から連絡がありました。TikTok(ティックトック)を始めたばかりだというその人は、「今まで届かなかった若い子たちにも動画が見てもらえて、すごい」と話し、「やってみなよ」と勧めました。

それまでティックトックを使っていなかった葦原さんは、アプリをダウンロードするところから始めました。ティックトック動画の編集もしたことがなかったため、アプリで気に入った動画の作り方を真似ることにしました。

「暇つぶし」で作り始めたこの動画が、バズります。

動画がバズった理由

1回目の緊急事態宣言まっただ中だった2020年4月27日、最初の動画をアップしました。「脚を失った事に『落ち込まなかった』っていうと」というタイトルで、自撮りで一人語りしている動画には、いま現在、3,874個のハートマークと84個のコメントがついています。

5月6日にアップしたのは、前年、京都に行った際に浴衣を着て車椅子で移動している、たった14秒の動画。これにハートマークが9861個、コメントは812個寄せられました。葦原さんは、このような反応があるとまったく予想していなかったと言います。

「最初は、車椅子についてあれこれコメントがくるのかなと思ったんです。でも、かわいいとか、洋服どこのやつですかとか、浴衣似合うねっていうコメントが多かったんですよね。それで、ティックトックを見ている若い子って、車椅子だってことはそれほど気にしないんだなと気付きました」

@myu_ashihara

全身姿upしていなかったので。去年4月の京都にて🍵 和装大好き👘 着る機会がほぼない袴をチョイスした日! #京都 #和装 #和装女子 #袴 #着物 #車椅子 #車椅子ユーザー #障害 #wheelchair #wheelchairlife #model #葦原海

♬ as usual – Official Sound Studio

動画をアップし続けているうちに、100万再生を超えるものも出てきました。不特定多数の目に触れると、さまざまな質問が寄せられるようになります。たとえば、「一人でトイレはどうするの?」という内容です。普段、面と向かってこのような質問をされたことのない葦原さんにとって、「そういうことが気になるんだ!」という発見になりました。

それならと、寄せられる質問に答える動画をアップ。すると、ますます視聴されるようになり、フォロワーも急増します。

「本当は障害者についていろいろ気になっているけれど、失礼だと思って質問できない人っていると思うんです。一方で、SNSなら偽名だから聞きやすいのか、遠慮なく質問してくる人もいます。私は質問されるのが嫌じゃないから正直に答えていると、実は自分もそのことについて知りたかったという人がたくさんいて、どんどんバズるようになりました」

SNSは図らずも、障害者と健常者の溝を埋める役割を果たしたのでした。

モデルとしてミラノとパリへ

コロナが落ち着いた頃には「インフルエンサー」と呼ばれるようになっていた葦原さんは、自らの手で仕事の幅を広げていきました。

2021年、ミラノ・ファッションウィークのオープニングムービー出演のためのオーディションが開かれると聞き、応募。審査員の評価とウェブ投票で、合格者が決まります。そのウェブ投票の締切2日前、オーディションの関係者から、「審査員の中ではめちゃくちゃ評価が良かったんですけれど、ウェブ投票の数があまりにも少ないから告知を頑張ってください」と連絡がありました。

その日の夜、ティックトックライブを開催。なぜオーディションに参加したか、受かったら何を伝えたいかを約4時間にわたって訴えました。すると一気に数百票が投じられ、オーディションに合格。当時はまだ海外渡航が難しい時期で、日本国内での撮影となったものの、オープニングムービーに参加することができました。

後日、この時のティックトックライブを見ていたというエージェントから連絡が来ます。もともと葦原さんをフォローしていたそうで、ライブを見て「デザイナーに紹介したら面白いかも」と思ったと言いました。これが縁となり、2022年秋のミラノ・ファッションウィーク、2023年春のパリ・ファッションウィークで日本人ファッションデザイナー、けみ芥見さんのショーモデルに抜擢されます。

2023年春 パリ・ファッションウィークのランウェイ

日本と文化も大きく異なるイタリアやフランスでは戸惑うことも多かったそうですが、葦原さんはその違いを楽しみ、「もっと違うところに行ってみたい」と思うようになりました。

また、2023年の『MISIA25周年アリーナライブツアー』では、全国8都市、18公演で車椅子パフォーマーとしてバックダンサーを担当。そして、同年5月にはこれまでの活動をまとめた書籍『私はないものを数えない。』を発売しています。

「今やっていることを続けることが大事」

20歳で独立し、26歳の今、モデル、パフォーマー、インフルエンサーとして注目を集める葦原さん。これからどういう活動をしていきたいですか?という質問に返ってきたのは、意外な答えでした。

「私はよく車椅子モデルって言われます。それはキャッチーだからだと理解しているんですけれど、自分からは車椅子モデルとは言いません。あえて車椅子ってつける必要なくない?と思っていて。今、そう言われるのは珍しいから。でも、当たり前になったらわざわざその言葉を使いませんよね」

たとえば、ニューヨークのファッションウィークに出たいとか、CMに出たいとか、もっと売れるようになりたいという答えではなく、葦原さんは「社会を変えたい」という話をしていました。

「多様性っていう言葉も、そう。すでに多様性があったら多様性って言葉を使わないと思うんですよ。だから、車椅子モデルとか多様性という言葉を使わなくていい社会にすることが目標です。それを実現するために、何か一つ大きなことをするというよりは、今やっていることを続けることが大事だなと思っています。無意識に馴染んでいくことが大切だと思っているので」

インタビューの最後に、目指す社会が100%だとしたら、今は何%ですか?と尋ねると、葦原さんは「20~30%ぐらいじゃないですかね」と苦笑しました。多様性と言わない社会は、まだ遥か彼方。それでも葦原さんは、軽やかに走り続けます。

(文:川内イオ)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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