カーネル・サンダース 奮闘の逸話。成功の種となった行動と想いとは

2021年1月12日

現代に語り継がれる偉人たちにも、私たちと同じように悩み、もやもやしていた時期があるもの。そんな偉人の等身大の姿から学ぶ『実は完璧ではなかった偉人の裏話』。第三回目はカーネル・サンダースに迫ります。

65歳から新たな挑戦を始めたカーネル・サンダース

カーネル・サンダースというと、白髪白ひげに、白のスーツが特徴的。ケンタッキーフライドチキンの顔として、店頭でその立像を見たことがあるという方も多いのはないでしょうか。

そんなカーネル・サンダースですが、その半生はなかなか知られていません。

現在、日本には1,130店舗以上、世界をみるとなんと、2万4000店舗を超えるケンタッキーフライドチキン(2020年度)。

そのはじまりは、ガソリンスタンドの横の小さな物置を改造した、たった6席の小さなレストラン「サンダース・サービステーション&カフェ」からでした。

カーネルは田舎町のハイウェイ沿いで、ガソリンスタンドとカフェを経営していました。「他の人に一生懸命サービスする人が、最も利益を得る人間である」という信念のもと、ガソリンスタンドはサービスの良さで、カフェは味で評判となります。

特にカフェの目玉だったのが、フライドチキン。カーネルはカフェを開いてから、10年もの歳月をかけ、11種類のハーブとスパイスを使用し圧力鍋で調理をする「オリジナルチキン」のレシピを完成させました。

しかし、新しいハイウエーの建設により車の流れが変わり、店は維持が困難に。カーネルは店を手放すこととなりました。この時、カーネルは65歳でした。

車で寝泊まりをし、飛び込み営業を続ける日々

店を手放し、負債を支払ったカーネル。唯一残ったのは、オリジナルチキンの調理法だけ。

なんとか成功する道はないか。

カーネルは徹底的に考え抜いた末に、かつてオリジナルチキンのレシピをピート・ハーマンというユタ州のレストラン経営者に買ってもらったことを思い出しました。しかもそのレストランのフライドチキンの売上はその後も順調だったそう。

この経験を活かし、オリジナルチキンのレシピを売って、それを展開しようというフランチャイズの先駆けとなる仕組みを思いつきます。

それはオリジナルチキンの調理法を教え、自らが調合した秘伝のスパイスを定期的に店舗に渡す代わりに、売れたチキン1本につき5セントを受け取るというもの。

カーネルはレストランにこの方式を導入しないか、と営業をかけていきました。

売り方は、飛び込み営業。車でレストランを周り、行く先々でオリジナルチキンを作って見せては、売れるごとに一定金額を支払う契約を結んでいこうとしたのです。

しかし、見知らぬおじいさんの営業に、聞き慣れないビジネスモデル。

カーネルが最初に目をつけた大型レストランは、カーネルなど見向きもせず、門前払いだったそう。

それでもカーネルは年金を切り崩し、少しでも生活費を節約するため、車で寝泊まりし、飛び込み営業を続けます。

「私は『神よ。私のオリジナルチキンの味を世界中の皆さんに食べて欲しい。そうなったら、お金は全てあなたにお渡します』と真剣に祈った」と言葉を残しているように、神にも祈る思いで、飛び込み営業を続けたといいます。

後から「高級レストランから放り出された数は全米一」と述べるほど行く先々で断られたカーネルは、戦略を練り直します。

カーネルが次に目をつけた営業先は、個人経営の小さなレストランでした。

夫婦でやっているような小さな店では、大型店ほど邪険に扱われることはないと踏んだのでしょう。店に頼み込み、その場で器具や材料を準備して、カーネル自身でオリジナルチキンを揚げることで、レストランのオーナーやスタッフに味見をしてもらうまでこぎ着けるようになっていきました。

数字が必要な場合には、すでに実績のあるピートのお店の売上の明細と、ピートとカーネルが一緒に写っている写真を相手にみせ、あるときは飛び込み先にいたお客さんにサービスでチキンを食べさせました。

そうした努力が実を結び、なんとか契約することができたのです。

カーネルが初契約を結んだときまで飛び込んだ回数は、なんと1009回とも言われています。

もともと味には定評があったため、一度契約を結んだことをきっかけに、実績は増えていき、さらに契約を結ぶという循環ができあがっていきました。73才の時にはチェーンは600店を超え、アメリカでも有数のチェーン店となりました。

そしてご存知のように日本でもカーネルのオリジナルチキンを食べられるようになっていったのです。

失敗は成功への種である

「自分に特別な才能があったとは思えない」と、カーネルはいいます。

そんなカーネルが成功した要因はただひとつ、「おいしいもので、人を幸せにしたい」という信念を貫き通したこと。

その信念を叶えるために、カーネルはできることを地道にやってきました。

一つの店舗に断られたら、断られた要因を探し、提案の仕方を変えていく。また断られたら、どういう根拠があればいいのか、裏付けをしていく。

このように失敗を重ね、なぜ失敗したかを考え抜いたことが成功へと繋がっていきました。

もしあなたが失敗を繰り返してしまい、なにか諦めてしまいそうなとき、カーネルのことを思い出してみてください。

これは何もビックなことを成し遂げろということではありません。例え失敗をしても、成功への種を模索することが大切だということ。

失敗の原因を考え、今できる小さなことをやり続けることがきっと、今後の成功へ繋がっていくはずでしょう。

そこには年齢や立場は関係ありません。だってカーネルは、65歳から成功をたぐり寄せたのですから。

参考文献:
カーネル・ハーランド・サンダース『サンダースの自伝・カーネル 世界でもっとも有名なシェフ』日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社
ひすいこたろう『明日が見えないときキミに力をくれる言葉』SBクリエイティブ
藤本隆一『カーネル・サンダース』産能大学出版部

(文/インディ+ヒャクマンボルト イラスト/榎本よしたか)

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