19歳で右目を失明。元プロボクサーが埼玉の人気ラーメン店主になった理由。

2024年3月27日

埼玉県北足立郡伊奈町に、20年以上前から愛されるラーメン店があります。「博多長浜らーめん楓神」です。愛され続ける理由は、その格別な豚骨スープの味だけではありません。

店主の関根悟史さんは、19歳の時にプロボクサーとして活躍していましたが、同年、交通事故で右目を失明。ヘルニアなどの合併症を発症しました。それでも自らを奮い立たせ、28歳の時に開業したのがらーめん楓神です。

一時は廃業したものの、関根さんが46歳の時に再び店を開け、コアなファンを熱狂の渦に巻き込んだらーめん楓神。

逆境に立ち向かう原動力となったものは、なんだったのでしょうか。ラーメン店を開業した理由や、廃業という絶望から這い上がることができたわけを深掘りします。

炊事、洗濯を自分でしていた幼少期

——らーめん楓神の豚骨スープは、「呼び戻し」という独特の製法でつくられているそうですね。SNS上でも「最高に美味しい、攻めスープ」と高い評価を得ていますが、どのような製法なのですか。

開業前、勉強のために訪れた福岡県久留米市発祥のスープの炊き方です。スープ釜を開業時から絶対に空にせず、別の釜でとった新しいスープを毎日少しずつ継ぎ足しながらつくる技法で、麺は、同じく福岡の長浜ラーメンの細麺を使っています。

ありがたいことにX(旧Twitter)では、「ぼくとらーめん楓神のスープは相思相愛です」といった、熱烈な愛のこもった投稿をよくいただきます(笑)。

——らーめん楓神の公式Xのフォロワーは約1万人。多くのファンが関根さんのラーメンを称賛していますね。ちなみに関根さんご自身は、過去に辛い幼少期を過ごされたとか。

小学校低学年の時、親父の虐待が原因で両親が離婚したんです。居酒屋を営んでいた母親は男性客にアプローチされることが多く、見知らぬが男がよく家に出入りしていました。相手の男性から暴力を受けたこともあります。

「自分のことは自分で守ろう」と思って、食事づくりや洗濯も自分でしていました。洗濯物は、まだ小学生だったので「天日干し」という概念が頭になくて、洗濯機から出したらタオルで包んで、足で踏んで水気を取り、床に広げて乾かしていたんです。だから、いつも生乾き臭かった。

このころは「いつか自分に暴力をふるった相手をぶっ飛ばしてやる」という思いと、怒りの発散のために、小学校の体育館にあった腕の筋肉を鍛える「プッシュアップバー」という器具で筋トレを300回くらい、毎日のようにしていましたね。

(写真はイメージ)

——怒りの感情を、筋トレで発散していたわけとは。

教室で暴れたりトラブルを起こしたりすると、保護者に連絡がいくじゃないですか。親に借りをつくりたくなかったんです。当時よくぼくの面倒を見てくれていた、親戚の恋人の暴走族の総長と一緒に、喧嘩に参加することはありましたが……。

小学4年生からは学校にも行かなくなりました。中学生時代はイライラや衝動を抑えきれず、喧嘩をしたり、物を壊したりすることも増えていたと思います。

事故で奪われたプロボクサーへの夢

——そこから、どのようにしてボクサーを志したのですか。

ボクシングを始めたのは19歳の時です。きっかけは当時付き合っていた彼女との別れでした。「喧嘩してばかりの今の自分、格好悪いな」と思ったし、有名になって見返したい気持ちもありました。

そのころは、高級クラブのチーフや配送・建築・電気関係などの職を転々としていて、仕事を続けながら、早朝や夜中にボクシングの練習をしていました。毎日20キロ走ったり、世界ランカーやオリンピック選手相手にトレーニングをしたりしましたね。

ボクシングでも、試合に出場すれば「ファイトマネー」という報酬がもらえますが、数カ月に一度、かつ一回につき約4万円なので生活費としては足りません。チケットを手売り(選手自身がチケットを売り歩くこと)すると、売上の一部が報酬に上乗せされるので、職場で手売りすることもありました。

——未経験でボクシングを始めて数カ月で、プロボクサー試験にも合格されたそうですね。

普段の喧嘩でパンチの打ち合いには慣れていたので、自然に、違和感なくできたというのもあるかもしれません。それにボクシングは、お金のためではない、自分自身が強くなるためのものでした。だから頑張れた。

毎日筋トレをしていたから女性に告白されることも多い時期でしたし、新人王のトーナメント戦への出場も決まっていました。

だけど、交通事故に遭ってすべてがなくなってしまって。

——どのような状況で事故に遭われたのですか。

トレーニングに行く途中、日本チャンピオンも参加する大事な練習だったので、遅刻しないよう早めに家を出てバイクで向かっていたんです。

見通しの悪い交差点で、一度減速して発進した瞬間、横から一時停止を無視したトラックが突っ込んできて。ぶつかってきた相手に「ふざけんな!」と言おうとしたら立てなくて、救急車で運ばれて……。

(写真はイメージ)

意識が戻った時、右目は失明していて、左目も視界が約4分の1の状態。首も、鞭打ちが悪化して脊椎から腰椎までのヘルニアになり、医者からは「このままではもうボクシングはできない」と言われました。

ただ、現実を受け止めたくなくて。

左目は僅かながら見えていたので、「(失明が)ばれなければボクシングも続けられるだろう」と、入院中も、外出許可時間に車椅子でのロードワークを毎日していました。競技用の車椅子じゃないので全然前に進まないんですが、逆に、いい筋トレになると思って。

退院してからも、「絶対に続けてやる」という想いで、車椅子に乗ったままできるパソコン仕事などをしながら、トレーニングを継続しました。

20代半ばでヘルニアや足のケガが良くなってからは、千葉県御宿町の海岸で行われたボクシングの合宿にも参加。そこで出会ったのが、今の奥さんです。奥さんは先輩の女友達と遊びに来ていて、一度ぼくと話した時に気に入ってくれたようで。今は立場が逆転して、ぼくが尻に敷かれていますが(笑)。

——奥さまは、らーめん楓神の店頭にもともに立たれていますね。なぜ、ラーメン店を開こうと考えたのでしょう。

28歳の時、医者から「右目の眼圧が上がっている。このままだと眼球が破裂する」と言われて手術を受けたんです。手術後、障害者になったことを伝えられて。ボクシングはもちろん、パソコン仕事も続けるのも難しい。続けられたとしても障害者雇用になる、と言われました。

迎えに来てくれた奥さんの車に乗った時はまだ冷静だったんですけど、「どうだった?」と聞かれた時に、「普通の社会人としては、もうはたらけない。ボクシングもできなくなってしまった」と話しながら、自覚してしまって。話した瞬間、涙がバーッと出てきました。

格好悪いけど、自分の境遇がすごく辛く思えたんですよね。もう、悔しくて悔しくて。今までどれだけ、朝晩のトレーニングや筋トレを頑張ってきたか。有名選手とスパークリングをしても絶対に負けなかったのに……。

だけど少ししたら、泣いている自分がだせぇ、と感じて。奥さんに「俺、今まで喧嘩とか暴力とかそういうのばかりだったから、人に喜ばれることがしたい」と話しました。何も考えていなかったんですけど、当時ラーメンビジネスが流行っていたので、「今ラーメンが流行っているから、ラーメン屋やるわ」と。

その時、奥さんに妊娠していることを伝えられたんです。

——なぜ、障害者雇用ではたらくのではなく、ラーメン店の開業を選んだのですか?

ぼくは特段資格などを持っていなかったので、障害者雇用では充分に稼げないと知ったんです。それでは家族が生活できないし、子どもに人並みの教育も受けさせてあげられない。それなら、自分で店を立ち上げて、自分発信でブランドをつくろう。自分にしかできないことを形にしよう、と思いました。

奥さんは「私がはたらくから大丈夫」と言ってくれましたが、生まれてくる子どもにも、仕事をせずにでゴロゴロしている自分ではなく、仕事で努力する姿を見てほしかった。

目の手術を受け障害者となった約半年後の2002年に、ボクシングの後援会の方々や知人に開店資金を融資いただいて、らーめん楓神を開業しました。

開業から間もないころの関根さんと息子さん

口コミで埼玉No.1の人気店に

——まったくの未経験で、どのようにしてラーメンづくりを学んだのでしょう?

都内にあるラーメン店で一週間アルバイトをしました。

野菜の切り物が中心でしたが、厨房内の匂いからスープづくりのコツを学びましたね。たとえば、スープが湧いた時にコハク酸の香りがしたら「これは結構、料理酒が入っているな。だけど料理酒だけだと塩分が強いから、強火で塩分の角(かど)を取っているのかな?」とか、甘い香りがしたら、「ほんの少し砂糖が入っているのかな?」などと予測して、自宅で再現してみたり、ほかの店に食べに行って自分がつくったスープとの違いを比べたり。

昔から、料理をする時、自分で食べて「美味しい」と感じたものを再現することに面白さを感じていたんです。

——子ども時代の自炊経験が活きたのですね。その後、店の評判はどう広まっていったのですか?

最初はインターネットの口コミでした。徐々にラーメン雑誌やテレビで取り上げられるようになり、加えて、ふとしたきっかけで「フライング替え玉」が話題になったんです。

開店当時、入院や手術による出費でとにかくお金がなかった。材料にお金をかけるために人件費も削っていたので、ある日、替え玉をお客さまに届ける人手が足りず、ぼくが厨房から客席側にいる奥さんに「皿でキャッチして!」と替え玉を投げたんです。一方、麺を投げるなんて不謹慎だとも思ったので、カウンターと厨房の間ののれんの下からこっそり(笑)。そうしたら「パン!」と替え玉がぴったりと皿に乗って。奥さんは元バレー部で運動神経がいいんです。

その光景を見た方がインターネットで発信してくれたようで、テレビの取材が来るようになって。以降はのれんを外し、奥さん以外のスタッフにも替え玉を投げるようになりました。

当時は平均して、一日30〜40万円売り上げることができていましたね。2010年には日本最大級のラーメン情報サイト『ラーメンデータベース』の豚骨部門で全国1位になりました。

——人気店であったにもかかわらず、開店から15年後の2017年に一度閉店されています。なぜだったのですか。

ぼくの怪我がきっかけです。厨房内で平衡感覚をなくしてしまって、自分の立ち位置が分からなくなり、鍋を倒して100℃以上の熱湯を浴びてしまったんです。足にやけどを負って病院に通う中、目の再手術も勧められ、術後は左目が視力0.01以下、光が見えるか見えないかの状態になりました。

リハビリを経て、光の加減から周りの状況を察知できるようにはなりましたが、「これ以上店を続けるのはもう無理だ」と思いました。体はもちろんですけど、休業のために収入が減って、金銭的にもカツカツでした。

それで、他社のラーメン店に譲渡することにしたんです。「いつかまた夫婦で店をやろう」と決めて、1鍋分のスープだけは冷凍保存でとっておきました。

——2020年7月、同じ場所に店を再オープンされています。

2年後、足も回復し、別の場所で再出発しようと物件を探したのですが、自宅からの距離を考えるとやはり以前の場所が一番でした。以前の店舗には、2017年に譲渡した他社のラーメン店が閉店し、別のカレー店がオープンしていました。ふらりと立ち寄ると、店内はガラガラ。そこで店主の方に「機材は買い取るから、店舗を譲ってもらえないか?」と尋ねると、ぼくを見て「あぁ、替え玉を投げる人!」と。経営が厳しかったようで、「ぼくたちはだめだったので、よろしくお願いします」と快く了承いただいて。

奥さんと2人で運営していたXの個人アカウントで再オープンの告知をしたところ、開店2時間前から駐車場が満車になり、車の長い行列ができる……、という予想外の事態が起きたんです。

——現在も、事故の後遺症で平熱が37〜38℃、目もほとんど見えないなかで営業を続けられているそうですね。なぜ、ご自身の体を酷使してでも店を続けようと思えるのでしょうか。

やはり、「待っていてくれるお客さんがいる」というのが大きいですね。

たくさんのどんぶりが空になって返ってくる光景も感慨深いですし、笑顔で帰っていくお客さんを見るのもうれしい。カウンターから覗き込んで挨拶をしてくれるお客さんもいます。事故後「普通にはたらくのは難しいだろう」と言われたのに、健常者の方から、仕事でそうした反応をいただけるのは本当にありがたいです。

開業前に志したように、自分にしかできないものをつくること、自分にしかできないことをやることにやりがいも感じています。

——これからやりたいこと、挑戦してみたいことはありますか。

同業他社と企業提携し、数社合同で新たな店舗を立ち上げることも視野に入れています。というのも個人の店は、同じことをただやっているだけでは、お客さんに関心を持ち続けてもらうのは難しい。形を変えていかなければいけませんが、一店舗でやれることには限りがあります。

たとえば、うちで出るチャーシューの肉汁はものすごく美味しいのに、結局使いきれなくて廃棄せざるを得ないことが多々あるんです。他社の中華店などと連携すれば、その肉汁を使った新メニューを提供できるかもしれない。

店を拡大することで、いつかはスタッフに店舗を任せ、ぼく自身はスープの管理に専念して、今まで削ってきた家族やペットの猫との時間をもっと増やしたいですね。家族の匂いや、家族の足音。それを感じられる空間で、より長い時間生活することが夢です。

(文:原由希奈 写真提供:関根悟史さん)

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ライター原 由希奈
1986年生まれ、札幌市在住の取材ライター。
北海道武蔵女子短期大学英文科卒、在学中に英国Solihull Collegeへ留学。
はたらき方や教育、テクノロジー、絵本など、興味のあることは幅広い。2児の母。
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