自分で小学校を設立!北海道で“夢物語”に挑んだ元教師に、約7,000万円の寄付が集まった理由

2023年11月13日

2023年4月、北海道長沼町に、「宿題もテストもない、チャイムも鳴らない」一風変わった学校ができました。名前は「まおい学びのさと小学校」。校長を務めるのは、62歳の元教師、細田孝哉さんです。

昭和の香りただよう木造校舎の職員室で「“先生”なんて呼ばないでください」と笑う細田さん。「学校をつくりたい」と思ったのは、今から約40年前のことでした。

まおい学びのさと小は2021年、主にX(旧Twitter)やnote、Facebookでの告知で約7,000万円の応援資金を集め、廃校が相次いでいた夕張郡長沼町の廃校舎の一つを使って開校。立ち上げまでには、いくつもの壁が立ちはだかったと言います。

「3年前、一度だけめげそうになったことがあるんです」

そう振り返る細田さんは、いったいどのような逆境を乗り越えてきたのでしょうか? 40年来の夢を実現させるまでの軌跡を伺います。

親友の言葉にショックを受けて

細田さんは1961年、北海道岩見沢市で生まれました。転勤族で、札幌や東京、稚内(わっかない)や旭川で子ども時代を過ごしたと言います。

「稚内にいたころは、海で流氷に乗っかって遊んでいました。旭川時代も、家のすぐ裏に山があって、そこでもよく遊んでいましたね。ただ、運動はあまり得意なほうじゃなくて。割と大人しい、穏やかな少年だったのかな」

テレビでやっていたオーケストラの番組で、オーストリア出身の名指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンを見て「かっけぇ〜!」と思い、指揮者を志した時期もあります。小5の時は友人に誘われて柔道部に入り、けれども「足払い」や「巴投(ともえなげ)」という技が細田さんにとっては「人の足やお腹を蹴るみたい」に思え、嫌で辞めてしまいました。

「教育」に関心を持つようになったのは、中学3年生の時。

「勉強はそこそこ頑張っていて、できるほうだったんですよね。それで、(定期テストの)学年順位が一つしか違わない親友がいたんです。その親友にある日、『細田は勉強ができるからいいよなぁ』と言われて」

(写真はイメージ)

「たった1番の差なのに、どうして?」。細田さんは親友を同志だと思っていたのに、そう皮肉のように言われてショックを受けました。この時から「勉強をやる意味ってなんだろう?」と考えるようになったのです。

高校は進学校へ進んだせいで周囲の学力が高く、細田さんは「ごく平凡な高校生で、勉強もさっぱり」になったと言います。逃げるような気持ちで、部活のサッカーに明け暮れました。

「中1の時の体育の先生が、もともとデキる子じゃなくて“伸びた子”に5をくれる先生だったんです。運動は苦手でしたが、この時『やればできるじゃん』と思って、女の子にモテるし(笑)、何かスポーツをやりたいなって。長距離走なら自信があったので、野球じゃなくサッカーを選びました」

サッカー部での経験は、その後の細田さんの生き方に大きな影響を与えます。

たとえば、中学時代はネガティブ思考で「グジグジ悩むタイプだった」と言う細田さん。ところがサッカーの試合中は過去を振り返っている暇などなく、今自分の置かれた状況を把握し、「これからどういう動きをするのが最善か?」を判断し続けなければなりません。この考え方が、日常生活にも根付いていったのです。

高校2年生になると、細田さんの「勉強」への疑問はますます大きくなります。

「どうしてこんなに試験だ、受験だって詰め込むんだろう?」
「勉強って本当は、『あ、分かった!』という発見がある、もっと面白いものなんじゃないだろうか」

同年の秋、大阪の大学で教育学の教授をしていた叔父が遊びに来て、そんな細田さんに教育学を学ぶことをすすめます。

「そうか、教育学だ!って。日本の教育の成り立ちや在り方を勉強して、この“詰め込み、詰め込み”の教育を変えよう、と思ったんです」

そこからは授業を集中して聞き、一日1時間、得意の数学だけは必ず家で復習するように。高3の夏以降に部活がなくなってからは、平日4時間、休みの日は10時間を受験勉強に費やしました。

まずは“小学校”からだ

そうして、滑り込みで北海道大学の教育学部に合格した細田さん。1985年に大学生活を終えると、「次は現場を知らなくては」と、教師の道を歩み始めます。

選んだのは、中学校教諭でした。思春期の子どもはさまざまな面で変化が著しいため、きっとやりがいがあると感じたのです。同じころ、大学時代の恩師が立ち上げた「新しい教育・学校をめざす研究会」の一員にもなりました。

中学校に12年間勤めた36歳の時、その子どもへの真摯な姿勢が評価され、札幌の進学校へ異動が決まります。そこでは、教師を続けながら大学院へ通う制度を使い「教職修士」も取得しました。

「このころは忙しくて、『日本の教育を変える』という目標には近付けていなかった。やっぱりやらなくちゃ、と思ったのは40代のころで、『グローバルコース』という学科を新設して、コース長として体験的な学びを取り入れたりしました。でも、一つのコースじゃだめだ。学校全体で、子どもたちのモチベーションを高めるようなことをやらなきゃいけない。いや、まず学校教育の始まりの“小学校”からだ、と思いました」

2015年、54歳の時に特別支援学校に異動になり、部活の指導がなくなったことで時間に余裕ができた細田さん。この年に学校設立に向けて教育運動を継続していた恩師・鈴木秀一氏が他界します。「じゃあ、誰がやるんだ?」と、細田さんが呼びかけ人となって、小学校をつくるために動き始めたのです。

お手本とするのは、過去に見学に訪れたこともある、和歌山県の「きのくに子どもの村学園」の小・中学校。1992年創立で、体験学習が中心のカリキュラムにもかかわらず、卒業生はその後進学した高校で好成績を収めるケースが多いといいます。

まずやったのは、座談会を開いて、「机上の勉強ではなく、体験から学ぶ小学校をつくりたい」という自らの考えを広めることでした。

座談会開催のチラシを、教育関係者や組合に配ったり、近隣の駅に貼らせてもらったり……。しかし、初日に集まったのはたったの5名。それでも何度か続けましたが、次第に気持ちが落ち込んでいきます。

「やっぱり、夢物語だったのかな」

転機は2018年のこと。座談会に参加していた女性が「SNSを使えばもっと人が集まるのでは?」と会に提案します。

細田さんは「そんなもので集まるわけが……」と半信半疑でした。しかし、女性とその周囲の知人が「私、Twitterに出すね」「じゃあ、私はnoteに」「私はFacebookに」と分担して告知したことで、同年5月には、40人を超える参加者が集まるようになったのです。

写真提供:学校法人学びのさと自由が丘学園

約7,000万円が寄付で集まる

2019年、細田さんは、長沼町役場に「小学校をつくりたい。空き校舎を貸してもらえないか?」と相談に行きました。長沼町では2020年に5つの小学校が統合される予定で、4校が廃校舎になる目前でした。

結果は、「貸しましょう」。

「やった……! と思いました。というのも、小学校を一からつくるには通常、20〜30億円の費用がかかるんです。でも校舎があれば、あとは数年分安全に運営できる資金さえできれば『認可』が下りる可能性があります」

「認可」とは、フリースクールではなく、れっきとした「学校法人」として開校するための許可のことです。役場に「これだけあれば安心でしょう」と言われた額は、約7,000万円。細田さんたちは、SNSやクラウドファウンディングで資金提供を呼び掛けました。

「9月に、厚さ2センチ、200ページぐらいある書類を必死に整えて出したんですけど、不備があったり、資金もまだ足りていなくて。役場で『このままじゃ認可は下りないよ』と言われて、その年の申請期日には間に合いそうになかったので泣く泣く取り下げたんです。『来年以降はどうしますか?』と聞かれて、『いや、もちろんもう一度挑戦します』と伝えましたが、この時、初めて心が折れかけました。もう、これ以上広まらないんじゃないか。(それまで集まっていた)寄付金もすべてお返しして、もうやめようかと」

しかし周囲は、そんな細田さんにこう声を掛けました。

「北海道自由が丘学園・ともに人間教育をすすめる会(旧:新しい教育・学校をめざす研究会)」の事務局長・吉野正敏氏は、「らしくないな」。細田さんが「俺、案外デリケートなんです」と言うと、笑って「ちょっと休め」と。

大学時代の親友で、学校法人の理事でもある手嶋和之氏は「細田はまず、やらなきゃだめだよ」と言い、気分転換にと校舎で音楽会を開き、得意のジャズピアノを弾いてくれました。

音楽会を皮切りに、その後「体験会」が数週間に一度開催され続けた

「こうやって活動を続けていけば、支持してくれる人も増えるかもしれない」

2020年の秋、精気を取り戻した細田さんは、自らの退職金もすべてつぎ込み、「今度こそ」という想いで役場に申請を出しました。ところが——

「カリキュラムに特色がありすぎて難しい。かつ、少子化で一度閉校になった場所に本当に子どもが集まるのか定かではない、という理由で、審議会にかけられる前に“不了承”となってしまって。ああ……じゃあ、どうしたらいいんだ? と思いました」

従来の「1年1組、2年2組」という分け方ではなく、「建設」「料理」「演劇」などのプロジェクトを通じて、学習指導要領の教科を横断的に学ぶ

そんな細田さんに声を掛けたのは、地元の住民たちでした。

もともとこの地域では、小学校がなくなることを残念に思う人たちが復活を求める運動を起こしており、叶わずに当時に至っていました。そのため、「また子どもたちの声が聞けるのなら、手伝うよ」と、資金集めをはじめ、さまざまな活動に協力してくれたのです。

翌年の2021年には、応援資金が目標額の約7,000万円に。支援者は、総勢600名前後に上りました。座談会の参加者も、この時点で延べ500名を超えます。

驚くことに、応援資金のうちクラウドファウンディングを通じた支援は数百万円で、残りはすべてSNSや、現地で細田さんたちの頑張りを見た人からの寄付でした。支援者には「きのくに子どもの村学園」の保護者もいたと言います。

「きのくに子どもの村学園」の学園長・堀真一郎氏からは、電話でカリキュラム編成のアドバイスも受けました。また、説明会に参加した保護者にアンケートを取り、「入学への意思」を4段階から選んでもらったところ、定員を満たせるという確信も得ました。

そうして2021年秋、3度目の申請で、細田さん曰く「認可が下りるまでの一番大きなハードル」である「学校設置計画」が了承されたのです。細田さんは、緊張が一気に解けたような笑顔でこう振り返ります。

「うれしくて大喜びというより、安堵のほうが強かったです。ああ、ここまで来た。ようやく開校できる……!って。いろいろな方の想いが乗っているから、もしだめだったら裏切ってしまうことになる。もう安堵感というか、あ〜、やった〜……!という気持ちでした」

一人で切り拓かなくてもいい

2022年11月、無事に認可が下り、「学校法人」として2023年4月に開校したまおい学びのさと小。現在、1年生から4年生まで57名の児童が学び、14名の職員がはたらいています。4年生までしかいないのは、5・6年生の入学を受け入れていないからです。新しい小学校には、1年生の春から入学する子もいれば、2年生以降にほかの学校から転入してくる子もいます。まおい学びのさと小では「少なくとも3年間はこの学校で過ごしてほしい」という想いから、途中入学できるのは4年生以下のみ。これは、「1年や2年では、学ぶ楽しさを知り主体的に学ぶ力を身につけきれない」と細田さんが考えているためです。

自らも毎日授業を担当している

細田さんは、無事に開校できた理由をこう思い起こします。

「ぼく自身は別に特別な才能があるわけでもなく、ちょっと頑張ろうとしている普通の人間。でも、どこかでそれを見てくれていたり、何かの機会に『ああ、あいついたな』と思い出して、励ましてくれたりする人がいるんですよね。最初は『自分で切り拓かなきゃ』と思っていたんだけど、思わぬ外からのはたらきかけで動かせてもらったことがある。そういう方たちの力でこの学校は開校したんだな、と思っています」

通常の授業風景。自分で選んだ場所と手段で学びを得る子どもたち

とはいえ、まだ課題もあります。たとえば、給食。現時点では週に2回、地元の食材を使ったご飯と味噌汁を地域のNPO法人の協力で提供しているものの、残り3回は子どもたちにお弁当を持参してもらっています。給食を週5回に増やすには、調理施設の整備や、調理師の配置などに新たな資金が必要なのです。

それでも、「保護者の皆さんが、学校の応援団になってくれている」のだと細田さんは話します。現在学校に2台あるスクールバスも、1台は保護者からの寄付だと言うのです。

「だから、スタッフのメンバーも含め、『人』が最高の財産です。お金は簡単に吹っ飛んでしまっても、人は、絶対に残るから」

細田さんがつくりたいのは、単なる楽しい学校ではなく、子どもが自分の頭で考え、自分で物事を判断できるようになるための教育の場。

「4年生が卒業するころには中学校を開設できるように、今動いています。いずれは十勝や上川のほうにも姉妹校をつくって、もしかしたらぼくが引退した後、死んだ後になるかもしれませんが、北海道を豊かなのびのびとした教育の地にしたい。そのためには、刻々と変わる状況に応じて判断を変えながら、最善を目指していく必要があります。

前のことを振り返って『あの時ああしていれば』ってグジグジ考えても、時間は戻らないですからね」

(文・写真:原 由希奈 写真提供:学校法人学びのさと自由が丘学園)

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ライター原 由希奈
1986年生まれ、札幌市在住の取材ライター。
北海道武蔵女子短期大学英文科卒、在学中に英国Solihull Collegeへ留学。
はたらき方や教育、テクノロジー、絵本など、興味のあることは幅広い。2児の母。
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