国内唯一の「野生のシャチ」に魅せられて―― “陸の孤島”で挑む自然写真家の道

2023年9月20日

ターコイズブルーに藍を一滴落としたような碧色の海で、白く泡立つ波が、ザブン……ザブン……と堤防に打ち付けています。堤防に沿うように、白や青、緑、ピンク、オレンジの色とりどりの小型漁船が並び、その横に、一回り大きな観光船が停船しています。

ここは、北海道の知床半島にある、羅臼の海。海は栄養分が豊富なため、沖に出ればクジラやイルカが悠々と泳いでいます。

中でもここでしか見ることができないのは「シャチ」です。羅臼の海には、日本国内で唯一、野生のシャチが来遊します。とはいえ都市部からのアクセスは容易ではなく、同じ道内の札幌からでも、夜行バスで片道約7時間という道のりです。

早川徳幸さんは、羅臼の海で、シャチを専門に撮影する自然写真家。2010年に初めて羅臼沖でシャチの群れに出会ってからというもの、その生態のユニークさに魅せられ、以来15年間、一年のうち40〜50日を羅臼で過ごしています。

(写真提供:早川徳幸)

早川さんの存在が注目を集めたのは、2023年5月、彼がX(旧Twitter/アカウント名「知床ドリーム」)に投稿したある写真がきっかけでした。

その写真とは、シャチの撮影の合間に撮った「子ぎつね」の写真で、この投稿には23万を超える「いいね」が集まります。もともと約6,000人のフォロワーがいた早川さんのアカウントですが、このバズを機に2倍以上に増え、SNSで販売していたシャチのカレンダーも即完売したと言います。

早川さんはなぜ、シャチに魅了されるのでしょうか。その理由や、世界三大遺産・知床半島の大自然の中で「自然写真家」としてはたらく過酷さ、15年の間に起きたシャチとのエピソードに迫ります。

野生のシャチに魅せられて

早川さんは、1960年に北海道札幌市で生まれました。野球と工作が好きな少年で、大学では電気工学を専攻。初めて知床半島を訪れたのは、大学4年生の時でした。

「友人と4人で遊びに行ったんです。ただその時は、知床半島を挟んで反対側にある、ウトロという地域しか知らなくて」

地図上で見ると、北海道の最東端から枝のように伸びた知床半島。半島を挟んで北西側がウトロ、南東側が羅臼で、その距離は車で1時間ほど

大学を卒業し、情報処理系の会社にシステムエンジニアとして就職した早川さん。羅臼の海に出会ったのは、2009年、49歳の時でした。新聞で、ホエールウォッチングができる観光船があると知り、興味を惹かれた早川さんはすぐに足を運びました。

船上で目にしたのは、マッコウクジラの姿。クジラはその全貌を海の上に現したわけではなく、海面に尾びれを出しただけでしたが、早川さんは、小さなカメラで必死に撮影を試みました。

「クジラって、潜る時にしっぽを上げるんですよね。それを撮りたかったんですけど、なかなか撮れなくて。そのころは、連写機能もない安物のカメラを使っていたので……」

このころの早川さんは、写真の技術も、性能の良いカメラも持っていません。かろうじて撮れたのは、写真の左端に、ブレた尾びれが写ったものでした。

「もっといい写真が撮りたい」

そんな思いが湧き起こり、一眼レフカメラを購入。翌年の2010年5月、再び羅臼を訪れ、ホエールウォッチングの船に乗ります。

すると、40頭ほどの野生のシャチの群れが、船から30m前後の距離で何度もジャンプしたのです。そのあまりの迫力と壮大さに、早川さんは夢中でシャッターを切りました。

(写真提供:早川徳幸)

以来、年に40〜50日間、週末と有給休暇を使って羅臼を訪れるようになりました。

「シャチは、大きいものだと8m、9mにもなると言われています。雑食で、群れによって食の嗜好が違いますが、クジラやサメも食べるので凶暴なイメージを持っている人も多いと思います。ただ、中には小さい魚しか食べない群れや、イカやアザラシを好む群れもあって。一つの群れはだいたい3040頭で、必ず血のつながった家族でつくられているんです」

早川さん曰く、群れの中で一番偉いのは「お母さんかおばあちゃん」。というのも、オスは子づくりの時期になるといったん別の群れに行きますが、最終的には自分の母親のいる群れに戻るからだそうです。シャチの群れには、父親が不在で、オスがいたとしても息子か親戚の立場ということです。

早川さんは、こうしたシャチの生態の不思議さや、「船に乗っても、必ず会えるとは限らない」希少性にどんどん惹かれていきます。「船」とは、ホエールウォッチングやイルカウォッチングのできる観光船のこと。1日2回就航する船に、早川さんは午前と午後の2回とも乗ることが多いと言います。

「小さな漁船に乗って、地上にいるヒグマを観察するツアーに参加した時にも偶然、10頭ぐらいのシャチに会いました。天気が快晴で波がなく、すごくいい写真が撮れてうれしかったですね。冬にワシを撮りに行ったら、シャチに会ったことも二度あります。シャチは冷たい海が好きなので、冬の海でも大丈夫なんです」

「自然写真家」を本業に

写真の技術は、誰かに習ったり講座に通ったりすることなく、独学で磨いてきました。「いいレンズのお陰もある」と笑う早川さんですが、シャチの自然な表情を捉えたその写真は、Instagramで「美しい」「水面を叩く音が聞こえてきそう」と国内外から称されます。

本業を退職し、シャチ専門の自然写真家一本で生きるようになったのは、2020年6月のことです。

「父親は54歳の時病気で亡くなったんです。それで、自分もそんなに長生きはできないかもしれないと思ったんですよね。それなら、好きなことをしたいと思って、定年を待たずに退職しました」

一時は「羅臼への移住を考え、不動産を探した」と言う早川さんですが、その自然の厳しさを知るがゆえに定住する勇気はまだ沸かず、今も札幌から車で通っています。

羅臼の海は寒い。同じ知床半島でも、ウトロより平均気温が5℃ほど低く、海に出るとさらに5℃ほど低くなると言う。取材に訪れた6月中旬の最高気温は14℃

早川さんいわく、シャチの美しい写真を撮るには、いくつかの条件が必要だそうです。

まずは天候。曇り空だと写真が暗くなり、白波があるとシャチが引き立たないと言います。雨だとそもそも船が欠航になる可能性があり、たとえ船に乗れたとしても、そもそも100%シャチに会えるとは限らない……。

「SNSに上げているのはよく撮れたものだけなので、実際は滅多に撮れません。晴れていて波がなければ、色鮮やかで鮮明なシャチの写真が撮れます。ただし、いつどこでジャンプするかわからないので、もう『もぐらたたき』みたいなものです(笑)。

一番写真に収めにくいのは、顔かな。シャチって、海面には尾びれしか出さないことが多いんですが、たまに顔を出すことがあるんです。特に、2頭以上が顔を出しているシーンはなかなか撮れません」

時期と天候、波、船の条件がそろって初めて、「シャチを撮るチャンス」が訪れる(写真提供:早川徳幸)

「ぼくは長い間ここに居座って、6割ぐらいの確率でシャチに会えていますが、東京から毎年通っても、何年も会えない人もいる。こればかりは運なので、滞在日数を増やすしかないんです」

大自然を相手にする過酷さ

一部の人には「陸の孤島」とも呼ばれる羅臼。

というのも、知床半島の主要なホテルは、その多くがウトロにあります。そのため、遠方から羅臼を訪れるには、ウトロに宿泊し、バスやレンタカーで行くのが一般的なルートです。ところが、ウトロと羅臼をつなぐ「知床横断道路」は、11月から4月まで雪のため閉鎖されてしまいうのです。

そのアクセスのしづらさから、日本で唯一野生のシャチが棲む海にもかかわらず、早川さんが知るかぎり「羅臼でシャチを専門に撮る自然写真家はほとんどいない」そうです。

また、ヒグマの危険とも常に隣り合わせです。

ある日、シャチの撮影の合間に、知床の森の遊歩道を歩いていた早川さん。ふと横を見ると、7mほど先に、ヒグマが立っていたのです。しかも、こちらをじろりと睨んでいます。

想像しただけでも寒気がするような状況の中、早川さんは、その大きさから「子グマだ」と判断し、無関心を装いました。すると今度は、子グマの後ろから母グマが現れたのです。早川さんが、携帯していたクマ撃退スプレーを使おうとしたところ、ヒグマの親子は立ち去ったと言います。

知床半島には400〜500頭ほどのヒグマが棲むと言われる

流氷と写るシャチを撮りたい

早川さんは、自然写真家として生計を立てるために、シャチや野生動物の写真をカレンダーにしてSNSで販売したり、写真素材サイトに写真を有償提供したりしています。

2023年5月のツイートが話題になって以来、その売上も好調に。2022年11月に200部販売し、160部が即売したカレンダーも、バズをきっかけに残り40部が即完売しました。GoProにかじりつくこの子ぎつねの投稿は、800万インプレッションを超えたそうです。

一方、滞在費や観光船に乗る費用として、年間3、40万円がかかると言います。安全面でも金銭面でも、決して負担は少なくないにもかかわらず、早川さんは年間一万枚以上の写真を撮り続けます。

「シャチって、何があるかわからないのが面白いんです。何年やっても、新しい何かが起きる。それは、新しい個体に会えるという意味ではなくて、新しい行動を見せてくれるという意味です。

たとえば、ある群れが船の下を一斉にくぐったり、子どものシャチが、船のエンジンがある場所にくっついて泳いできたり。見たことのないものに興味を惹かれて追いかけるというのは、子どものシャチにしか見られない行動なんですが、人間の子どものようでかわいいですよね。この間は、帰ろうとしたら、2〜3匹の子どもが連続でジャンプしたんです。『さあ、帰ろう』と船が踵を返したら、追いかけてきたり……」

子どものシャチは、お腹と目の部分が真っ白ではなく茶色がかっている (写真提供:早川徳幸)

昨年には、「知床羅臼写真コンテスト2022」で最優秀賞を受賞した早川さん。これまでにも、合計10以上の北海道の写真コンテストで受賞を果たしています。

「これから撮りたいのは、流氷の時期に、朝焼けと一緒に写るシャチの姿ですね。写真集を出したり、個展をひらくのも夢です」

羅臼の海は今、世界的にめずらしい「白いシャチ」が現れたことでさらに注目を浴びています。そのような壮大な海で、早川さんは今日もシャチを追いかけます。

(文・写真:原 由希奈 写真提供:早川徳幸)

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ライター原 由希奈
1986年生まれ、札幌市在住の取材ライター。
北海道武蔵女子短期大学英文科卒、在学中に英国Solihull Collegeへ留学。
はたらき方や教育、テクノロジー、絵本など、興味のあることは幅広い。2児の母。
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