「長持ちしすぎで、依頼が来ない」博多唯一の屋台職人が40年こだわったこと

2023年9月25日

福岡県博多市の観光スポットとしても有名な「博多の屋台」。中洲の川沿いにずらりと並ぶ赤ちょうちんの屋台をメディアで目にしたことがある人もいるでしょう。

博多には中洲屋台のほか、天神屋台、長浜屋台など、いくつかの屋台街があり、福岡県内の屋台の数は約100軒と言われています。

この博多の屋台文化を40年間支えてきたのが、屋台の製作を手掛ける「赤城製作所」。匠の技術が求められる職人の世界で、現在1人で屋台製作を切り盛りするのが、御年80歳になる赤城孝子さんです。

赤城さんのお話には「はたらきがい」とは何かを考える上で、さまざまなヒントがありました。

職人の技術の粋が集まった博多屋台

みなさんは屋台が開店する現場を見たことがありますか?会社でも終業のチャイムが鳴る午後5時。時計で測ったようにリアカーをひいて屋台の事業者がやってきます。

この時点では、屋台は大きな木造の人力車のよう。屋台の事業者は、所定の場所に到着すると、屋台の屋根やテーブルを広げて、イスを設置して━━と手際良く屋台を完成させていきます。この間、ものの5分程度。

たちまち形態が変化し、「お店」になっていく様子は見ていて心地よく、一見の価値あり。そして、屋台にさまざまな技術が詰まっていることを想像させてくれます。

そして、この技術の粋を集めた博多屋台の製作を40年間担ってきたのが赤城製作所です。

赤城製作所の赤城孝子さん

「今までね、93台の屋台を作りましたよ、うん。博多には今100台くらいの屋台があるけれど、中洲にも天神にも長浜にも、うちの作った屋台がたくさんあります。

でもね1台として同じものはないんですよ。1台1台、オーダーメイドですから。お客さん(屋台事業者)が何を売ってどんな動き方をするのか見たり聞いたりしてね。うちはこれまで何台も作ってきていますから。お客さんが気付かないようなところも、使いやすいように作っているんです。手抜きってことはね、100%ない」

現在、屋台専門の製作所は博多で赤城製作所だけ。博多の屋台は条例で出店時間・場所と厳密にルール化されています。

そのため、屋台の寸法も決まっており数センチの誤差も許されないほか、車やバイクで牽引して移動させるために車輪をつけて軽車両にしなければならないなど、屋台製作にあたってはさまざまな制約があります。

赤城製作所ではそれらの細かい規定を遵守しながら、屋台製作ならではのノウハウを培ってきました。

赤城製作所の工場の様子

「営業場所は3m×2.5mって決められているから、その中でどれだけ店主が動きやすい屋台にするかっていうのもそうだしね。すぐにお店を開けるようにぱたぱたっと2、3分で組み立てられるようにっていうのもそう。

あとは道路でひくためにどれくらいのタイヤの大きさがないと危ないとか。これくらいの重みがかかるから、下の台はこれだけ頑丈にしとかんと、とかね。いろいろあるんですよ。

あと一番は壊れないようにしとかんとね。屋台が壊れたら、店主はその分お休みしなきゃいけんくなるでしょ。直すには修理代ももらわなきゃいけん。

屋台を作り始めたころに、一度古い屋台を全部ばらしたことがあるんです。それでどこがどう壊れるのかをしっかり調べて。そういうところは気をつけて作るようにしとるね。

初めての人が真似して作ろうとしても、道路でひけなかったとか、すぐ壊れてしまったとか、やっぱり難しいんですよ」(赤城さん)

オーダーを受けてから屋台を製作するのにかかる期間が約2カ月。屋台の型を決めてしまって、機械で製作すれば大幅に時間もコストも短縮できるはず。でも、赤城さんはオーダーメイドで店主の要望に応えたいという想いと強度の観点から、それを良しとしません。

「効率は悪いっちゃ悪いけどね。ちゃんと作っとかんといかんっていうだけの話。損とか得とかじゃないんです。それでいいんですよ」

最盛期には400軒あった屋台も現在は100軒程度に

赤城孝子さんは熊本県天草の出身。岡山の工場ではたらいた後、結婚を機に福岡に住むことになりました。1970年に旦那さんが赤城建具店を創業。孝子さんも旦那さんの見よう見まねで建具職人の仕事を覚えていったそうです。

転機になったのは1984年。現在の博多の屋台のスタイルを考案した屋台大工の緒方宇八さんから、屋台の戸板の製作を頼まれたのです。徐々に注文は増え、緒方さんが屋台大工を引退する際に、屋台作りのノウハウを学んでいた赤城建具店が跡を引き継ぐことに。

「緒方さんところは息子もいたんだけど、違う仕事をしていてね。跡取りがいなかったんです。当時から屋台大工の担い手は見つかりにくい状況だったんですね。それでうちがやることになったんだけど、緒方のじいちゃんからは、ちょっと間違えるとめっちゃ怒られましたよ(笑)」

太平洋戦争の直後からはじまった博多屋台の歴史。衛生面や景観の問題から全国的に屋台が衰退していく中で、福岡では組合が発足され、屋台文化が守られていきました。1970年代には400軒ほどの屋台が軒を連ねていたそうです。

屋台製作を引き継いだ赤城建具店(現・赤城製作所)の依頼のピークは1989年のアジア太平洋博覧会が開催されたとき。年間10台もの屋台を製作したそうです。

孝子さんが思い出深いという博多の老舗屋台・花山を製作したときの写真

「40年やっていたなかで、よかトピア(アジア太平洋博覧会の通称)のときは、屋台をすごく良く取り上げてもらって、幸せだったね。でもそうやって屋台が持ち上げられた一方で屋台を嫌だという住民もいて。400軒くらいあった屋台も徐々に減っていったんです。

最近ではまた行政の方も協力的になっているけど、それでもやっぱり屋台は厳しいね」

歩道の占拠、汚水、騒音など、さまざまな問題が取り沙汰されて、逆風に立たされることになった博多の屋台。1994年には屋台営業を一代限りにするという方針のもと屋台の名義変更・譲渡が禁止されたことで、高齢化により廃業しなくてはならなくなる屋台が相次いだそうです。

2000年代になると、博多観光の象徴として屋台文化を守ろうという機運が再び高まりはじめます。「屋台指導要綱」や「福岡市屋台基本条例」が施行され、行政の管理下に置かれるように。

しかし、公募で新規出店も可能ではあるものの、最盛期と比べると屋台製作の需要は大幅に減少。ここ数年、赤城製作所への屋台製作の依頼は年間1台から、0台のときもあるそうです。

「うちの屋台は壊れないからね。1989年に作ってまだ作り替えていない屋台もあります。一度作るとそのお客さんからは依頼が来ないんですよ(笑)」

40年、屋台を作るときは毎回新鮮な気持ち

10年ほど前からは旦那さんの体調が優れず、赤城製作所を一人で切り盛りしていた孝子さん。今年の2月、旦那さんがお亡くなりになったそうです。孝子さんは、緒方さんから引き継がれ、赤城製作所で40年培った屋台製作ノウハウを知る、唯一の人物となりました。

その元気な様子から年齢を感じさせない孝子さんですが、もう80歳。これからのことをどう考えているのでしょうか。

「これまで93台の屋台を作ってきたけれど、100台いけるかな……。うちが屋台を作れなくなったら困ってしまう人はおると思う。でも、これから先今のようには作りきれなくなるかもしれんね。

屋台製作のこと書いて残したいっちゃけど、残しても誰も貰ってくれる人おらんし、やっぱり自分でやってみないと分からんしね。

製作のとき、大まかな寸法は書くんですけれど、細かい図面はなくて、全部私の頭ん中なんです。弟子をとろうにも、全部手仕事で今の若い人はやりたがらんだろうし。子どもたちも2人いるけど別の仕事をしています。

結局、せめて私がおらんくなっても大丈夫なように、丈夫な屋台を作るしかないね」

自らの志で屋台職人を目指していたわけではありません。それでも40年間一切手を抜かず、儲けのあるなしではなく、職人としてプライドを持って屋台製作を続けてきた孝子さん。その原動力とは━━。

「仕事のやりがい?ないことはないね、うん。やっぱり納品したときにちゃんと作れたら、ほっとするっていうかね。みんなが『赤城製作所で作った屋台は安心して使えるけん』とかって言ってくれるんで、喜んでもらえるのが一番ですよね。

あとはね、1台として同じ屋台はないから。何回作っても新鮮なんですよ。屋根を取り付けるときに、一発で決まるとね、やっぱり気持ち良いんです。それだけのことなんですけど。それがちゃんとできた日は、もうめっちゃ良い気分になるけんね」

(文:野垣映二)

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