在留邦人は約130人。ウズベキスタンに移住して見つけた“ならでは”の喜びと可能性

2023年9月13日

海外で仕事をする人にインタビューする連載「世界ではたらく日本人」。第5回は、ウズベキスタン・サマルカンドで旅行会社やカフェなどを経営している盛井佳菜さんにお話を伺いました。

盛井さんは旅行会社に勤務した後、2008年からJICAの青年海外協力隊としてウズベキスタンで2年間活動。当時出会ったウズベキスタン人と結婚し、2020年7月からウズベキスタンに移住しました。日本人の在住者はわずか133人(参照:令和3年10月時点)とされるウズベキスタンへの移住にいたる経緯や、現地での子育てについて聞きました。

ウズベキスタンに行くまで

青年海外協力隊としてウズベキスタンへ

――まずは、ウズベキスタンに来る前のお仕事について教えてください。

大学を卒業後、旅行会社で3年間勤務しました。

大学では国際学科で学び、国際協力や開発の分野に興味を持っていたのですが、まずは社会人経験を積むために就職。旅行は人々の国際理解を深める良いツールであり、旅行会社で国際理解のきっかけづくりをしたいと考えました。まあ、単純に自分が旅行好きということもありますが(笑)。

――3年間旅行会社に勤めた後は?

JICAの青年海外協力隊として、ウズベキスタンに派遣されました。

旅行会社の仕事はやりがいもあり、楽しかったのですが、多くの先輩が退社して海外に留学したり、海外ではたらいたりするのを見ていて、自分もそうしたいなと。

やっぱり女性としては、結婚や子育てとかの年齢を考えちゃうんです。結婚する前に海外で1、2年はたらたいてみたかったので、学生時代から興味のあった協力隊に応募しました。

――もともとウズベキスタンに興味はあったのですか?

いえ、まったく(笑)。協力隊といえばアフリカのイメージでした。なので正直、アフリカに行きたかったんです。でも、アフリカ諸国の活動内容が自分のこれまでやってきたこととのマッチ度がちょっと低くて。

一方でウズベキスタンはというと、私が派遣された2008年は、ちょうどサマルカンドの大学に観光学部が新設された年でした。これから国を挙げて観光を盛り上げていこうというタイミングだったので、旅行会社での経験を活かせると思ったんです。

――青年海外協力隊の活動内容を具体的に教えてください。

その大学の観光学部での指導が私の主な活動でした。観光資源の見いだし方やツアーのつくり方など、日本での実務経験をもとに観光業についてお話ししました。学生だけでなく、先生にも。当時ウズベキスタンでは国内旅行が流行っておらず、観光の情報がまったくありませんでした。大学でも、実務経験のない先生が本を見ながら教えているような状況だったんです。

私は、日本での観光産業の発展の歴史として、たとえば国内旅行が盛んになったことで観光地が発展したことや、子どもたちが楽しみながら歴史を学べる遠足というものがあること、その意義などを一から説明していました。

青年海外協力隊として活動していた盛井さん(本人中央、本人提供)

海外の中でもウズベキスタンでの起業を選んだ理由

「今がチャンス」と移住を決断

――青年海外協力隊の活動を終えた後は?

2年間の任期を終えて2010年に帰国しました。ただ、いつかウズベキスタンに戻るんだろうなと思っていました。

というのも、ウズベキスタンで暮らしている間に今の主人に出会ったんです。そして、帰国から半年後に結婚。主人は、もともとサマルカンドで経営していた旅行会社の仕事を、日本に来てからも続けていました。

一方、私はECサイトでウズベキスタンの雑貨販売を始めました。かわいらしい雑貨を通して、日本人にもっとウズベキスタンのことを知ってもらいたいなと。

最初は趣味の延長線上でした。夏休みにウズベキスタンで雑貨をたくさん仕入れてきて、それを日本で売るというような。でも、途中から自分で商品づくりをしたいと思うようになりました。

なぜなら、お土産屋さんで仕入れる商品のクオリティに満足できなくなったからです。中には生地が薄かったり、縫い方が雑だったり、ファスナーがすぐに壊れちゃったりするものもありました。こうした商品をお客さまに売るのは申し訳ないと思ったんです。

主人の親戚に縫い子さんがいたので「カバンも縫ってみない?」とお願いして、商品づくりを始めました。

――ウズベキスタンに移住したのは、いつですか?

2020年の7月です。もともとは2020年3月に行く予定だったのですが、コロナで飛行機がキャンセルになってしまい、結局夏になりました。

2018年に日本人観光客のビザが不要になったこと、またSNSでサマルカンドの青い遺跡が拡散され始めたことなどから、コロナ前はウズベキスタンへの日本人観光客が増えていました。そのため主人が日本で暮らしながら旅行会社の仕事をコントロールするのが難しくなってきたので、思い切って移住することにしたんです。

――海外移住は大きな決断だと思います。迷いはありませんでしたか?

かなり迷いました。結婚当初は当面日本で暮らす予定だったので、日本に家を買っていて、まだローンも残っていたんです。子どもも3人いるので、特に教育面が心配で。日本にいる方が生活は安定するだろうとも考えました。

でもビジネスをするなら今がチャンスだと思い、決断しました。ウズベキスタンはまさに発展している最中で、まだ日本人もそれほど住んでいません。私が日本で積んできた経験を、ウズベキスタンなら大いに生かしていけるのではと思ったんです。

また、主人の影響も大きかったですね。彼は「今できることをやろう」というタイプ。私が将来の心配をしていても「いつ死ぬか分からないし、年金を使うかも分からない」と言われると「たしかに」と納得してしまって(笑)。それで、覚悟を決めて日本の家を売却しました。

ウズベキスタンでの仕事内容

旅行手配、カフェ、雑貨販売の3事業を運営

――現在ウズベキスタンで行っている仕事内容を教えてください。

サマルカンドで旅行手配、カフェ経営、雑貨販売を行っています。会社自体は主人の名前で登記していますが、二人で経営しているようなイメージです。

普段はカフェ「Ikat Boutiques」にいることが多いです。調理や配膳などの基本業務はスタッフに任せていますが、日本人のお客さまに対してウズベキスタンの生活についてお話ししたり、旅行のアドバイスをしたり。空き時間には、パソコンを使った旅行業務の作業をしています。

カフェ店内のスペースでは、ウズベキスタン雑貨を販売。カバンやクッションカバー、コーヒーカップやティーポットなどさまざまな雑貨や工芸品を扱っています。日本からのオンライン注文も可能です。

――スタッフはどのようにして見つけているのでしょうか?

主人の家族、親戚がメインです。スタッフ同士の相性も大事なので、親戚の知り合いにもお声がけをして、一緒にはたらいてもらっています。

カフェの仕事はお金が絡むので、最終的には信用できるかどうかが重要です。なので、なるべくつながりのある人をスタッフとして採用しています。

ウズベキスタンで感じる、はたらく上での日本との違い

へこんで来なくなってしまうスタッフ

――スタッフのマネジメントについて、日本と違うところはありますか?

ウズベキスタンで仕事をする上で、マネジメントが一番大変かもしれません。生まれ持ったものも習慣も違うので、日本と同じようにはいきません。仕方のないことですが。

たとえば、時間にルーズだったり、勤務時間でもお客さんが来なかったらスマホを見てしまったり。そうしたことを注意すると、へこんで来なくなってしまうんです。

たまに逆ギレする子もいますが、多くのウズベキスタン人は注意すると結構へこんでしまいます。なので注意の仕方も気を付けなければいけません。

辞めてしまうスタッフもいるので、いかに長くはたらいてもらえるかが今の課題です。まだまだ試行錯誤しているところですね。

――ほかに苦労することはありますか?

やはり日本人との感覚の違いにはとても苦労しています。旅行業務でホテルの手配をしたくてもホテル側からなかなか回答が来なかったり、ガイドさんが指示を聞いてくれなかったり。「お客さまのお迎えで空港に着いたら、一度連絡をしてください」と伝えているのに、全然連絡がこないんです。みんな自己流でやってしまうようで。

それから、インフラも深刻な問題です。ウズベキスタンは年間の寒暖差が激しく、夏や冬は皆エアコンを使うため、電力不足が発生し、雑貨製作の方に影響を及ぼします。停電によって、ミシンが動かなかったり、アイロンができなかったりして雑貨の製作が遅れ、納期に間に合わなくなってしまうことがあります。

ウズベキスタンのワーク・ライフ・バランス

仕事と生活のバランスに満足

――子育てについてはどのように捉えていますか?

私たちは仕事のためにウズベキスタンに移住したわけですが、子どもたちにとっては本当に良かったのだろうか?と悩むことはあります。

日本だと小学校の授業は朝から夕方くらいまであって、さまざまな教科を学べますよね。でもウズベキスタンでは、授業数が少ないんです。教室も先生の数も足りていないので、学年によって入れ替わりで授業が行われます。長女は午後のみ、次女は午前のみ授業を受けています。

教育の質も高いとは言えません。音楽の先生が「ドレミファソ」を分からなかったりするので、ちょっと大丈夫かなと心配にはなります(笑)。

ただ、ないものねだりをするよりもウズベキスタンでできることに目を向けるべきだと思っています。ここには、日本ではまだ大衆的とはいえないオーガニックの食生活や、親戚との深いつながりがあるんです。そのような経験は子どもたちにとっても非常に良いものだと感じています。

――ウズベキスタンでのワーク・ライフ・バランスはどうでしょうか?

カフェは休業日がないので、結構仕事している時間は長いです。ただ、自分の時間も家族との時間も、日本ではたらいていたころより確保できています。

次女は学校が12時で終わると、そのままカフェに帰ってきます。仕事しながら次女と話をしたり、勉強を見たりできるのがいいですね。

ウズベキスタンでは大変なこともありますが、仕事と生活のバランスが取れていることにすごく満足しています。

――これからやりたいことを教えてください。

将来的には、カフェの裏の空間にホテルを建てようと計画しています。ほかにも新しい事業に取り組んでいきたいです。

今構想しているのは、保育園の立ち上げです。日本では保育園や幼稚園で「しっかり順番を守って並ぼうね」とか「人のものを勝手に盗っちゃいけないよ」とか習うじゃないですか。そういったしつけをする保育園を運営したいと考えています。

もう一つは、通信教育事業。ウズベキスタンでは通信教育が全然ないということもあり、家庭学習をほとんどしません。最近は塾が流行ってきていますが、送り迎えが大変だなと。なので、午前中で学校が終わっても、午後に家で学べるような通信教育事業をやっていきたいです。

(文・写真:岡村幸治)

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ライター岡村幸治
1994年生まれ。スポーツニッポン新聞社を経て、フリーライターへ。経営者インタビューや旅行エッセイなどを執筆する。旅が大好きで、世界遺産検定マイスターの資格を保有している。
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