ファッションエディターから弁護士へ。好奇心のおもむくままに歩んだ独自のキャリア

2023年3月17日

大学卒業後、自治省(現総務省)の官僚になるも、1年で退職。ファッションエディターとして雑誌、広告を舞台に活躍したあと、司法試験に合格して弁護士に。この類まれなキャリアを歩むのは、三村小松法律事務所の海老澤美幸さん。節目、節目での大胆なキャリアチェンジの裏側には、「ファッションが好き」という10代のころから変わらぬ想いがありました。

ファッションに夢中になった学生時代を経て、国家公務員へ

中学生のころからファッションが好きで、都内の私立女子校に通い始めた高校時代にその熱が高まったという海老澤さん。ファッション誌『CUTiE(キューティ)』や『Olive(オリーブ)』を読み込み、母親が若いころに着ていたレトロな柄のワンピースやブラウスを借りては着こなすようになります。

自然とファッションの仕事に興味を持ち、両親に「ファッションの専門学校に進みたい」と相談したものの、「大学に行ってから考えればいいんじゃない?」と言われ、大学に進学。学部は「就職の役に立つかな」という軽い気持ちから法学部を選びました。

それがきっかけで法律に目覚め……ということはなく、大学2年生まではダンスサークルの活動に明け暮れます。サークル活動が落ち着くと、3年生からはアメリカ発のセレクトショップ「BARNEYS NEWYORK(バーニーズニューヨーク)」でのアルバイトに精を出しました。

憧れのファッション業界の仕事に夢中になり就職活動に出遅れた海老澤さん。卒業後はファッション業界に進まずに、公務員試験の受験を決めました。

「ファッション業界の仕事はすごく楽しかったんですけど、販売職を経験したら満足してしまって。それでファッション熱が一度落ち着いて、公務員を目指すことにしたんです

自治省をわずか1年で退職

難関の国家公務員Ⅰ種(現総合職)試験に合格した海老澤さんが就職先に選んだのは、自治省。地方自治を所管している省庁で、職員は地方自治体への出向と東京の本庁勤務を繰り返します。自衛官の父親を持ち、転勤の多い幼少期を過ごした海老澤さんは地方自治に興味があり、地方での生活経験が豊富な職員の話にも惹かれたそう。

入省すると、すぐに岐阜県庁に出向。市町村の行政を所管する部署で、市長や村長の話を聞きに行ったり、公共施設の見学などさまざまな職務経験を重ねる日々。このころの岐阜市は再開発の前で、駅前はシャッター商店街化していました。その様子を見た海老澤さんの胸のうちに、再びファッションへの想いが昂り始めます。

「ここは昔なにがあったのかなと思って調べたら、繊維問屋がいっぱいあったと知って、それがこんなに衰退しちゃったのかと寂しく思ったんです。そんな話をしていたら、そうだ、私ファッションの仕事がやりたかったんだなって思い出したんですよ」

一度思い立ったらまっしぐらに駆け出す性分の海老澤さんは、すぐにファッション業界の仕事を探し始めました。すると、高校時代によく読んでいた『CUTiE』を出版している宝島社が求人を出しているのを見つけ、即応募。わずか1年で自治省を辞め、転職します。両親に退職と転職の報告したのは、なんとすべてが決まったあと。驚いた父親から長文のFAXが送られてきたと言います。

「そのFAXは実は、まだ読めていないんです。読んだら絶対泣いちゃうから。考え直して、って書いてあるのがちらっと見えたんですけど、もう自治省を辞めた後だし、読んでもどうしようもないじゃないですか。なので、とりあえず仕舞っておこうと思って。転職は本当に勢いでしたね」

自治省在職時の海老澤さん

ファッション誌編集部を経て、「やりたい仕事」を求めロンドンへ

宝島社に入社したのは、1999年、24歳の時。雑誌『CUTiE』編集部で3カ月間見習いをした後、『SPRiNG』の編集部に配属されました。

ファッション誌の編集者の仕事は多岐にわたります。企画を出し、スタイリストやカメラマン、モデルを手配。同時に「ラフ」と呼ばれるページ構成を考える。そして、撮影に立ち会い、現場のプロたちと相談しながら誌面のイメージを固める。さらに原稿を書き、デザインをチェックし、校了までこなします。当時、『SPRiNG』は隔週発行の雑誌。二週間に一度このサイクルを繰り返していた海老澤さんはこう振り返ります。

「忙しすぎて、わけがわからなかったですね(笑)。当時は朝4時まで原稿を書いて、5時から撮影というスケージュールも珍しくなかったので、撮影中に寝ちゃうこともありました。でも、そういうところも含めて楽しくて。文化祭の前日がずっと続いてるみたいな感じでした」

このハードワークに慣れてきたころ、海老澤さんは自分がやりたいと思っていたことが明確に見えてきました。それは、「ビジュアルをつくること」。ストーリーを考え、それに合わせた服や小物を選び、撮影の舞台に配置する。ファッション誌制作の過程で最も惹かれたのはこの作業でした。ただ、当時のファッション誌でそれを担っていたのは主にスタイリスト。編集者は構想を伝え、全体をディレクションすることが主な役目でした。

「ぜんぶ自分でできたほうが面白いのに……」と思った海老澤さんは、スタイリストの下で修行をすることを考えます。しかし、当時の現場ではスタイリストがアシスタントにつらく当たるシーンを目撃することも珍しくなく、「私には無理」と感じたそうです。

一方、海外に目を向けてみると、誌面でスタイリングも手掛けるファッションエディターと呼ばれる人たちが活躍していると分かりました。それを知って居ても立っても居られなくなった海老澤さんは2003年、ロンドンへと飛びます。

デザイナー兼スタイリストのもとで実務を学んだ日々

そうしてイギリスで唯一のファッション専門大学、ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションで二度目の学生生活がスタートしました。しかし、座学よりも現場の実務を学びたいと思っていた海老澤さんはすぐさま大学を辞めることとなります。友人からの紹介でデザイナー兼スタイリストのマルコ・マティシックさんのアシスタントとしてはたらくことが決まったからです。海老澤さんは、「これだ!」と直感した時の決断が早いのです。

マルコさんは多彩な人物で、自身のブランドを持ちながら、ファッションショーのバックステージの取材をしたり、スタイリストとして高級デパート、ハロッズの広告制作をしたりと幅広く活動していました。海老澤さんは1年半ほど彼のもとで、仕事のイロハを教わりました。

「マルコさんのもとでヨーロッパのメディアの雰囲気や、大企業の広告が作られている現場を見られたのはとてもいい経験になりましたね。日本では経験できなかったスタイリストとしての仕事もさせていただきました」

もう一つの発見は、スタイリストとアシスタントが、日本のように厳しい上下関係ではなく、チームメイトのようだったこと。アシスタントが丁稚奉公のように扱われることもある日本の環境への違和感は、後の行動につながります。

ロンドンでの経験がのちのキャリアに大きな影響を及ぼした

「ファッションに精通した弁護士」がいないことの問題に気づいたフリーランス時代

帰国した海老澤さんは、スタイリングもするファッションエディターとしてはたらき始めます。日本ではまだなじみのない職業でしたが、ロンドンで学んだことを活かし、少しずつファッション誌や広告の仕事が増えていきました。

ファッションエディターは編集者とスタイリスト、両方の仕事を請け負います。海外では、ファッションエディターにアシスタントがいて、原稿は別のライターが書くことが一般的です。しかし、海老澤さんは基本的に一人で両者を請け負っていたので、雑誌の編集者時代よりも多忙になりました。それでも自分がイメージしたビジュアルを表現する仕事はやりがいがあり、毎日を駆け抜けるように仕事に打ち込みました。

そうして着実に実績を積み上げていた海老澤さんが足を止めたのは、2010年の末。それまでずっと気にしていながらも、忙しさのなかで見て見ぬふりをしてきた業界の常識が目に余るようになってきたのです。

「たとえば当時、雑誌用に撮影した写真をポスターにしたり、電車の中吊り広告に使うといったことが行われていました。その場合、カメラマンとモデルには二次使用料が支払われるんですが、それ以外のスタッフには支払われないこともありました。以前から、それはおかしいという声があり、出版社に明確なルールを作るように求めようという話になりました。でも、実際にはなかなか難しくて。また、そのころもまだパワハラ、セクハラや長時間労働の話は見聞きしていました。いろいろな問題がグレーのまま残されていたんです

ファッションに精通した法律の専門家がいてくれたら……と思った時、ふと我に返りました。「そういえば私、法律学科出身だよな」と。

学生時代、弁護士を目指して勉強をしてみたものの、旧司法試験の合格率は1~2%台という超難関で、「これは無理だ」と諦めたことがありました。今はどうなっているのだろうと検索したら、司法制度改革によって法科大学院(ロースクール)が設立され、2006年より、これを修了した人が新司法試験を受験できるようになっていました。

旧司法試験と新司法試験は2006年から5年間、並行して実施されており、2010年の合格率は25.4%。旧司法試験と比べると弁護士への扉が大きく開かれていることに気づいた海老澤さんに、再びスイッチが入ります。

「ファッションに詳しい弁護士はいないみたいだし、じゃあ、私がロースクールに入ればいいのかと思いました」

「ファッションローって何?」弁護士一年目に味わった挫折

ファッションエディターとして活躍していた海老澤さんは、2011年3月いっぱいですべての仕事を片付けて受験勉強に専念。その年の11月に行われた試験で一橋大学法科大学院に合格し、翌年から三度目の学生生活を始めました。大学院での2年間は、机にかじりつくようにして勉強し、「仕事しているほうがよっぽど楽」なほどだったそうです。

「勉強の仕方も忘れちゃってて、ノートってどう取るんだっけ、みたいなところからでしたね(笑)。でも同級生がすごくいい人たちばっかりで、本当にいろいろ教えてもらいました」

法科大学院を修了した学生は、年に一度の司法試験を受験します。海老澤さんは、修了した年に最初の司法試験を受けましたが不合格でした。それから、友人の助けを受けながら猛勉強し、背水の陣で翌年、二度目の司法試験に挑戦。晴れて合格し、研修期間である司法修習を経て、2017年1月1日、弁護士登録を果たします。弁護士を志してから、7年の月日が経っていました。

しかし、それからも決して順風満々だったわけではありません。一般的に、新米弁護士は経験を積むために弁護士事務所に就職するのですが、そこでいきなりつまずくことになります。

「面接時にファッション関連の法律(ファッションロー)をやりたという話をしていたんですけど、ファッションローってなに?ファッションの仕事ってお金にならなくない?という反応がほとんどでした」

ここで、「ファッションロー」の成り立ちについて、簡単に説明します。弁護士で、ニーヨークにあるフォーダム大学の教授を務めるスーザン・スカフィディさんがファッションローのコースを同大に立ち上げたのが2006年。2010年には、同大学内にNPO法人「ファッション・ロー・インスティテュート」を設立しました。これをきっかけに「ファッションロー」という概念が生まれ、世界的に知られることとなります。つまり、法律の世界でもまだ生まれて間もない新しい分野なのです。

このNPOは集中講義「ファッションローブートキャンプ」を開催していて、それに参加した弁理士兼ニューヨーク州弁護士の金井倫之さんが、2014年に「ファッション・ロー・インスティテュート・ジャパン」を設立しています。海老澤さんが弁護士になった当時はこの団体が活動を始めて間もなく、日本の弁護士業界での認知度がそこまで高くはありませんでした。

念願かなって立ち上げた「ファッション業界の駆け込み寺」

弁護士事務所の面接は、連戦連敗。どうしようかと頭を悩ませている時、先輩弁護士から「エージェントに登録したら?」と勧められて登録したところ、紹介された1社目で内定が出ました。

それが、着せ替えや部屋のコーディネートが楽しめる女性向けアバターアプリ『ポケコロ』を運営するココネ株式会社。面接の際、社長から「僕たちはアプリを作っているけどアパレルだと思ってます。だからアパレルの経験のある人に来てほしい」と言われて、社内弁護士として就職を決めました。社内弁護士とは、どんな仕事をするのでしょうか?

「社内で契約書のチェックをしたり、事業の法律相談に乗ります。たとえば、アプリのコンテンツが法律的に問題がないか、というような内容です。従業員向けに基礎知識をレクチャーしたり、法律意識を高めるための啓蒙活動もやりましたね」

ココネ株式会社での仕事はやりがいのあるものでしたが、元編集者のスキルも買われて広報も兼務することになり、「実質1年目なのに十分に法律の知識を活かせない」と、改めてはたらき先を探すことに。その時にたまたま募集を出していた林総合法律事務所に連絡し、ファッションローのことを話したところ、「面白いね」と初めて好感触を得て、とんとん拍子で就職が決定。ここから、追い風が吹き始めます。

2017年11月に同事務所での勤務が始まってすぐ、「ファッション業界の人が気軽に相談できる駆け込み寺のようなものを作りたい」と上司に相談すると、「いいね!今から作りなよ」と背中を押され、その年の年末、自らファッション法律問題の相談サイト『fashionlaw.tokyo』を立ち上げました。

これがいくつものメディアに取り上げられ、少しずつ知られることに。ファッションローにも注目が集まり始めた2019年、もともとファッションやアートの分野に力を入れていた小松隼也弁護士が大手事務所から独立し、三村小松法律事務所を設立するタイミングで「ぜひ一緒に」と声をかけられて、移籍。2021年1月には小松弁護士、海老澤さんほか2名の弁護士、元裁判官、大学教授とともにファッションローの専門チーム「ファッションロー・ユニット」を結成します。

ファッションローの専門チーム「ファッションロー・ユニット」

ファッションと法律。独自の専門性で、新しい分野を切り開く

ファッション業界では、日本のブランドがビジネスを行う中できちんと契約書を締結していなかったり、海外に進出する際に、契約書に不利な文言が含まれているのに専門知識を持つ弁護士の目を通さずにサインをしてしまい、後になってトラブルに巻き込まれてしまうということが発生しています。

また、ヒット商品のそっくりなデザインの商品が出回るデザイン盗用の問題もあります。ナイキやアディダス、ルイヴィトンやシャネルといったグローバルブランドは商品の形状を意匠登録しているため、これらの問題を回避できます。しかし、日本のブランドでは意匠登録しているところはいまだ少なく、盗用されても泣き寝入りするケースが多い。このようなリスクを回避するために、問題が起きる前に法的な問題に対して準備することが必要だと海老澤さんは話します。

「ファッション業界の人たちも法律の知識が必要だと気づいていたとは思うんですが、流れがはやく商流も複雑な中で、後回しにされてきました。後手後手になって、対価を回収できなかったり、ブランドが傷ついたりすると大きな損害になります。事後の対処だと法的にもできることが限られているし、かなりの時間と費用がかかります。それはすごくもったいないと思うんですよね。だからこそ、私たちに事前に相談してほしいんです」

海老澤さんは、ファッションローの存在はビジネス上のリスク回避にとどまらず、ファッションにおけるクリエイティブの強化にもつながると考えています。予め法律の枠を認識することで、その境界線でアイデアを絞り、工夫を凝らすようになる。そうしてファッションが進化するのは、今も変わらずファッションを愛する海老澤さんにとってうれしいことなのです。

近年、不用意なデザインの盗用によってSNSで炎上したり、当事者の合意なく固有の文化をファッションに流用することで「文化の盗用」と告発されたりする事態が起き、時には国際問題に発展することも少なくありません。そうした問題が顕在化するにつれ、国や企業はもちろん、人々の意識も明らかに変化しています。

海老澤さんは2022年5月、ファッションローの専門家として高島屋の社外取締役に就任。冒頭に記したように同年11月には、経済産業省の「ファッションの未来を考える研究会 ファッションローワーキング・グループ」の副座長に就任しました。ファッションローの考えが少しずつ浸透し、社会に変化が起きてきているのです。

高校時代に『Olive』を愛読していたオリーブ少女は今、日本のファッションの保護と強化のために、六法全書を抱いてファッションローの最前線に立っているのです。

 

(執筆:川内イオ 撮影:玉村敬太 写真提供:海老澤美幸)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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