「おれ、まだ余裕あるわ」どん底の寺川俊平アナをW杯実況に向かわせた同僚の助言

2023年3月28日

FIFAワールドカップカタール2022を沸かせた名コンビ

優勝候補のドイツ、スペインを破って決勝トーナメントに進出した日本代表の快進撃に沸いた「FIFAワールドカップカタール2022」。

日本代表の奮闘とともに想定外の注目を集めたのが、代表戦を生中継したサイバーエージェントのインターネットテレビ「ABEMA(アベマ)」で解説を務めた本田圭佑氏と、実況を担当したテレビ朝日の寺川俊平アナウンサーです。

地上波のテレビ放送では見ることがないような本田氏のユニークな視点と奔放かつ鋭いコメントがSNS上で話題になり、ワールドカップ期間中、ツイッター上で「#本田圭佑」、「#本田の解説」、「#本田さん」と投稿された数は約65万件にのぼったそうです。そして、寺川さんは本田氏からたびたび繰り出させる質問に的確に応じながら、時に視聴者の笑いを誘うような掛け合いを見せ、「名実況」「名コンビ」と讃えられました。

ワールドカップで一躍脚光を浴びた寺川さん。しかし、常に華やかな道を歩んできたわけではありません。むしろ、幼少期から悔しい思いを重ねて、ようやくつかんだチャンスがカタールワールドカップだったのです。

心に火をつけたサッカー部顧問の言葉

幼稚園からサッカーを始めた寺川さんは、サッカーの強豪校として知られる暁星中学校・高等学校、早稲田大学でサッカー部に所属していましたが、定位置はベンチでした。ポジションは小学生の時からゴールキーパーで、一人しか試合に出場できないという事情はあったものの、実力不足でつらい目にも遭ったと振り返ります。

「めちゃくちゃ下手で、よく仲間にいじられていましたね。たとえば中学1年生の時、2チームに分かれてミニゲームをすることになったんです。そうしたらぼくの目の前でもう一人のうまいゴールキーパーをどちらのチームが取るのかで揉めたりするんですよ。そういうことがちょこちょこあって、いつも悔しさを噛みしめていました」

それでも練習には休まず通い、愚直にトレーニングを重ねました。すると徐々に周囲の見る目も変わっていきました。

寺川さんには、今も忘れられない言葉があります。中学3年生の時、レギュラーだった選手がケガをして、試合出場の機会が巡ってきました。その試合が始まる前、サッカー部顧問の田中隆昭先生がチームメイトに声をかけました。

「お前たち、後ろを見てみろ。3年間休まずに一生懸命コツコツやってきた寺川がいるぞ。心配することはない。 安心して勝ちにいけ」

この言葉を聞いて、胸が熱くなったと言います。

「この一言をもらえたことで、苦いことがあるからこそ、楽しいこと、うれしいことが待っているんだなって実感しましたね。諦めずに続ければ何かあるだろうっていう、人生における忍耐強さみたいなものを教わりました」

人生を変えた「夢逆算理論」

高校時代は、現在日本サッカー協会副会長を務める林義規氏の指導のもとで厳しく鍛え上げられ、高校3年生になると出番に恵まれました。とはいえ決して目立つ存在ではなく、サッカー部の2学年下の後輩に面と向かって「尊敬するゴールキーパーは権田修一さん(寺川さんの一学年下で、FC東京ユースでプレーしていた)」と公言されて、「イラっときた」と苦笑します。

夏に部活が終わってからは必死に勉強して、補欠合格で早稲田大学に進学。大所帯の“ア式蹴球部”(サッカー部)にはゴールキーパーだけで10人もいて、トップチームは遠い存在でした。

当時、ア式蹴球部の監督を務めていた元日本代表選手、大榎克己氏の口癖は「続けること」。中高時代に滅多なことでは練習を休まなかった寺川さんは、大学生になってからも腐ることなく目の前のトレーニングに取り組みました。

サッカー漬けだった寺川さんに転機が訪れたのは、大学2年生の時。ケガをして別メニューで調整していたら、同じくケガで離脱していた同級生の浜村さんに「てら、将来どうなりたい?」と聞かれました。当時、特に夢がなかった寺川さんが正直にそう告げると、同級生はこう言いました。

「お前はサッカー選手になるとか、歌手になるとか、医者になるとか、そういうものしか夢だと思ってないだろう。そうじゃなくて、どういう死に方をしたいか、どういうおじいちゃんになりたいかを考えなよ。それが決まると逆算してやりたいこととか、やらなきゃいけないことが出てくるから」

この言葉を聞いて、直感的に思い浮かんだのは「じゃあ、喋りの面白いおじいちゃんになりたい」。そうなるためにどうしたらいいのかを考えているうちに、「ワールドカップで日本代表の試合を実況したい」という想いが湧いてきました。

「もし、この時に浜村くんから『夢逆算理論』を聞いていなかったら、ぜんぜん違う人生を歩んでいたと思います。確実にぼくの人生を変えてくれた一人ですね」と寺川さん。

思い出のレシート

一般的に、アナウンサーを目指す学生は専門のスクールに通う人も多いです。しかし、寺川さんはアナウンススクールに通うことなく、サッカー部の練習に打ち込みました。

大学3年生の夏には、各テレビ局でアナウンサー志望者向けのセミナーが行われます。そこで「ウケ狙い」のエントリーシートを書いて応募したところ、全滅。その後すぐに、アナウンサーの採用試験が始まります。「ウケ狙い=面白いではない」と学んだ寺川さんは気持ちを入れ替え、直球勝負で採用試験に臨みました。

アナウンサー試験はテンポが速く、合格すると翌日には次の試験が行われます。寺川さんはとんとん拍子に選考を通過。そしてテレビ朝日の最終面接を終えた後、採用試験を受ける過程で仲良くなり、ともに最終面接に進んだ学生に声をかけ、高田馬場でラーメンを食べました。

その後、カフェに入って「二人とも落ちたとしても、どっちかが受かっても、それはそれでいい思い出になったよね」と話していたら、同時に電話が鳴りました。二人とも同じ用件、テレビ朝日からの採用通知でした。その友人は、今も同じ職場ではたらく菅原知弘アナウンサーです。

「カフェの2階でばっと立ち上がって、二人で握手したんです。その様子を見て、詳しくは分からないけどぼくらに良いことがあったんだろうなと思ったんでしょうね。横に座っていた女子高生とお母さんから『おめでとうございます』と言われました。ぼくはいまだにその時のカフェのレシートを持っています」

日の目を見なかった4年間

2010年、「ワールドカップで日本代表の試合を実況したい」という夢を抱き、見事にスタートラインに立った寺川さん。しかし、そこから順風満帆とはほど遠い道のりが待っていました。

同期入社の二人、菅原アナウンサーと森葉子アナウンサーが次々とレギュラー番組を持って活躍し始めるなか、寺川さんは丸4年間、下積みが続きました。

「入社してから丸4年、レギュラー番組がないアナウンサーって、多分これまでいないんじゃないですかね。高校、大学の同級生に、『アナウンサーになったんだよね、どの番組に出ているの?』 『まだ見たことないや』って言われるのがすっごくきつかったです。いつ自分が代表戦で実況できるようになるのか、まったく先が見えなかったですね」

ただ、表舞台に立てないのは、寺川さんにとって慣れたシチュエーションでした。そして、そこから這い上がるために何をしたらいいのかも、分かっていました。「苦しいことがあるからこそ、楽しいこと、うれしいことが待っている」ことを信じて、一つひとつの仕事に必死で取り組むしかありません。

幸い、テレビ朝日のアナウンス部は「スポーツの実況をやりたい。月に1本でも2カ月に1本でもいいからしゃべりたい」と訴えれば、そのやる気を認めてくれる土壌がありました。寺川さんは、当時テレビ朝日が放映権を持っていたサッカーのAFCチャンピオンズリーグや6大学野球などで実況を担当しながら、「いつか地上波の代表戦も中継したいんだ」という想いが決して消えることはありませんでした。

花形のスポーツキャスターに抜擢

2014年4月、寺川さんは入社5年目にして初めてレギュラー番組を持ちました。報道番組『ワイド!スクランブル』でレポーターとして、2年間、全国の事件、事故、災害の現場を飛び回ったのです。

その仕事ぶりが評価されたのでしょう。2016年4月、『報道ステーション』のスポーツキャスターに抜擢。1年後の2017年4月にはプロ野球のコーナー「きょうの熱盛」の担当となり、コーナーを体現する熱い語り口で「熱盛男」と呼ばれるようになりました。

2年間、花形のスポーツキャスターとしてスポットライトを浴びて迎えた2018年は、ロシアワールドカップが開催される年でした。寺川さんには、期するものがありました。4年前のブラジルワールドカップでは、中継映像を見ながらスタジオで実況を入れる「オフチューブ形式」で2試合担当したのみ。「ロシア大会こそ日本代表の実況を!」と希望を抱いていました。

ところが、ふたを開けてみると、任されたのは日本対セネガル戦の録画放送の実況だけ。寺川さんにとっての夢舞台、生放送での実況の機会は巡ってきませんでした。ワールドカップは4年に一度しか開催されません。手をかけたと思った実況席は、再び遠ざかっていきました。

それからの4年間、寺川さんは下を向くことなく腕を磨き続けました。意識したのは、「人の話を聞くこと」。

「アナウンス部にすごく聞き上手な先輩がいて、20代のころによく飲みに行っていたんですよ。その人は頭の回転が速くて、スタジオに出ると受け答えがめちゃくちゃ面白い。ずっとジェラシーを感じながら、いつかこれぐらいできるようになりたいと思っていたんです。それで、日常の会話のなかで誰かが何か言ったことに対してどう返すかというのを常にチャレンジするようにしました。それがちょっとずつ形になっているという実感が得られるようになった4年間でしたね」

どん底から這い上がる

「今度こそ絶対に地上波で実況するんだ」と前のめりで臨んだ2022年、ここから寺川さんの飛躍が始まる……どころか、どん底に叩き落されました。夏の盛りが過ぎたころ、地上波の実況に抜擢されたのは別のアナウンサーであることを知らされたのです。

2014年、2018年と苦汁を舐めてきた寺川さんですが、この時ばかりはかつてないほど落ち込みました。何が足りないのか、その理由が明かされなかったこともあり、苛立ち、不満をためながらも、「結局は実力不足」と自分に言い聞かせるしかありません。

ほどなくして、ABEMAからオファーがありました。「日本戦全試合と準決勝、決勝もお願いしたい」という依頼です。寺川さんに断るという選択肢はありませんでしたが、気持ちは晴れませんでした。

そのころ、カタールワールドカップの放送のチーフディレクターを務める同僚から声をかけられて、麻布十番の焼き鳥屋でお酒を飲みました。そのディレクターは大学時代のサッカー部のチームメイトで、寺川さんにとっては最も信頼できる戦友のような存在。お酒を酌み交わしながら愚痴をこぼしていたら、こう言われたそうです。

「誰かを羨んだりできるということは、まだお前には余裕がある。だから大丈夫だ」

話を聞けば、その友人は溢れんばかりの仕事を抱えていました。そうなると、誰かを妬んだりする余裕もなくなり、少しでも手を貸してくれた人には感謝の気持ちしかないと言いました。だから、「まだお前には余裕がある」という指摘です。この一言で、気持ちが切り替わりました。

「あー、確かにな。俺、まだ余裕あるわ。そういう余力を、仕事に前向きに取り組むために使おう。よし、ABEMAでやってやろう!」

焼き鳥屋に入る前、うなだれていた寺川さんは、しっかりと顔を上げて店を後にしました。

遠藤航選手の心がけ 

地上波ではなかったとはいえ、「ワールドカップで日本代表の試合を実況したい」という学生のころからの夢を叶えた寺川さん。11月23日の日本代表対ドイツ代表の試合前、緊張しませんでしたか?と質問すると、「ビックリするほどしませんでした」と答えました。その背景には寺川さんが10年前から取材で追いかけている日本代表、遠藤航選手との交流がありました。

「遠藤選手は、過度に緊張するのは過度に自分に期待しているからって言うんですよ。自分に期待しすぎると実力に見合ってないことをしなければいけなくなるからいいパフォーマンスが出せない。だから、今までやってきたことをただその通りにやればいいんです、と。ぼくはそう語る遠藤選手の背中を見ながら、この4年間、その考え方をすごく大切にしてきました。サッカーに限らず、実況を担当したひとつひとつのスポーツ中継に真剣に向き合ってきたので、気負いはなかったですね」

試合前日、数時間かけて日本代表とドイツ代表の情報をおさらいした寺川さんは、晴れやかな気分で生中継に挑みました。

日本が劇的な逆転勝利を収め、ABEMA史上初めて1日の視聴者数が1,000万人を超えたこの試合、SNS上では試合内容とともに寺川さんと本田氏とのやり取りがバズりました。なかでも、寺川さんがドリブルする久保建英選手を「キープする本田」と呼び間違えた瞬間、本田氏が「ぼく、出た方がいいですか?試合出ましょうか?」とすかさず切り返したシーンは、話題を呼びました。

「あれは、本田さんに救われましたね(笑)。13年間、アナウンサーをやってきたので、ミスをしても動揺しない訓練は積んでいます。あの時もすでに次のプレーに進んでいるので、慌てるようなことはありませんでした。その一方で、ミスに対して敏感でなければいけなくて、間違った情報を言ってしまった時は素早く訂正することも習慣づけているので、すぐに謝りました」

一瞬も気が抜けなかった実況

第2戦以降も本田氏と寺川さんの軽妙な掛け合いが続き、日本代表の試合のたびにTwitter上でトレンド入りしました。寺川さんは、自分の名前がかつてないほどSNSで飛び交っていることを知っていましたが、「ここで調子に乗ったら終わりだぞ」と毎日のように自分を戒めたと言います。

「本田さんがとにかく面白かったので、ぼくの受け答えも評価されている実感はありました。でも、そこでぼくが悪ふざけをしたり、過剰に乗っかったりすると、視聴者は『調子に乗ってる』と興ざめすると思うんです。実況アナウンサーとして本田さんをより面白く見せるためには、あえて受けない時があってもいいし、ほんの少し乗っかるけどもすぐ戻るみたいなことも必要で、そのバランスをすごく意識していました」

目の前で繰り広げられる日本代表の熱戦に集中しつつ、頭のなかは冷静に保ち、本田氏の言葉と存在を際立たせる。大会を通してそれができたのは、ロシア大会からの4年間、「人の話を聞く力」を磨いてきたからでしょう。

開幕前、地上波の実況から外れて肩を落とした寺川さんでしたが、ABEMAで自身も納得の成果を残し、胸を張ってカタールから帰国しました。

「ワールドカップを楽しんで、面白がって、仕事ができたような気がします」

新たな目標と夢

ワールドカップを経て、大きな変化があったのは、視聴者の反応です。それまではサッカーの実況を担当すると、SNSのダイレクトメッセージを通して直接ダメだしが送られてくることもしばしば。ところが、ワールドカップ期間中からは賞賛のメッセージが送られてくるようになりました。寺川さんはこの劇的な変化をうれしく思いつつ、浮き足立たないように気を付けています。

「自分のことをすごく優秀な実況アナウンサーだって思っちゃったら、もうダメですね。今は、とにかく地に足をつけることが大事だと思っています。ただ、もともとはすごく調子乗りなので、その性格のリトル寺川と自制心を強く持てという理性的なリトル寺川がいつも喧嘩している感じです」

ワールドカップはもう過去のこととして整理をつけ、寺川さんはすでに新たな、大きな目標に向かって歩み始めています。

「テレビは今、斜陽だ、落ち目だと言われています。その通りかもしれないけど、問題はテレビ局自体がそういう思考に陥っていること。だからまずはアナウンス部からもっとはたらくことにワクワクするような環境づくりをできないかと思って、最近、提案書を出しました。それで1年ぐらいかけてアナウンス部を変えれば、小さな輪が広がって、ほかの部署でも何かが起こるはず。すっごく大きなことを言えば、会社を変えたいんです」

そしてそれに加えてもうひとつ、寺川さんには夢があります。

「いつか本田圭佑が日本代表の監督になって、 その日本代表がワールドカップで優勝する。その時に自分が放送席にいたら、こんな面白いことはないだろうな」

(文:川内イオ 写真:naive)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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