国内外のデザイン賞を獲得するプロダクトデザイナー秋田道夫が語る、「頑張らない」キャリアの歩み方

2023年8月30日

60代でSNSが話題を呼び書籍化へ

東京・銀座の中心にある「銀座4丁目交差点」。毎日、多くの人が行き交うこの場所に、厚みがとても薄い歩行者用信号機が設置されています。極限まで薄くすることで従来の信号機から30%軽くなったこのLED信号機は、福岡県大牟田市の「信号電材」によって2006年に発売されて以来、日本全国で設置されてきました。誰もが目にするこの信号機のデザインを担当したのが、プロダクトデザイナーの秋田道夫さんです。

ほかにも、秋田さんの仕事は都内のあちこちで目にすることができます。たとえば、JRの駅にある、細長い佇まいのチャージ機。六本木ヒルズや虎ノ門ヒルズ、GINZASIXで導入されているセキュリティゲートも、秋田さんのデザインです。

「意識されないことこそ、風景に溶け込んだ良いデザイン」と語る秋田さんですが、自身は今、脚光を浴びています。日々X(旧Twitter)へ投稿している含蓄のある言葉が話題を呼び、フォロワー10万人超。出版した書籍『機嫌のデザイン まわりに左右されないシンプルな考え方』(ダイヤモンド者)『自分に語りかける時も敬語で — 機嫌よく日々を送るための哲学』(夜間飛行)はいずれも重版を重ねています。

「自分を探しに行ったこともないし、自分を変えたいと思ったこともありません。『まあ、こんなもんだな。』の一言です。」(4月22日)

「心配は無用。あなたの代わりはどんどん生まれています。あなたは勝手に楽しめば良い。」(4月25日)

現在、70歳。一見突き放すようでありながらもどこか温かみを感じさせる秋田さんの言葉は、どのような歩みを経て紡がれてきたのでしょうか?

メーカーにプロダクト改善の提案をする中学生

1953年、大阪市で生まれた秋田さんは、「カーデザイナーになりたかった」という少年時代から、自分を俯瞰する視点を持っていました。

「暇さえあれば絵を描いているというタイプでもなく、自分ではとびきり絵が得意だと思っていなかったんです。どちらかというと、外で遊んでいるほうが好きでした。でも勉強だとクラスの中で何人も自分より上がいるのに、絵に関しては自分より上手いと思える人が2人ぐらいしかいなかった。それなら、絵を生かせる道に進もうかなと」

中学生の時、買ったばかりのルーズリーフのファイルが壊れました。ハガキにプロダクトの改善策を記してお客様相談室に送ると、その会社から感謝の手紙が届いたそうです。

「ファイルのツメが甘かったから、ハガキに今はこういう状態で、ここをこう変えたほうが良いです、という絵を描いて送りました。当たり前にそのことに気が付いて、特になんの躊躇もなく送ったらお礼が届いたんですよ」

「プロダクト」への興味関心は、日々の生活の中で育まれてきました。秋田さんの幼少期から工場内の医療施設で看護師をしていた母親が、誰からもらったのか、日々いろいろなものを持って帰ってきたそうです。最高級刃物の街として知られるドイツのゾーリンゲンで作られた果物ナイフや、オルゴールがついた薬箱。そんな珍しいものが手に取れる環境で、モノを見る目が磨かれたのでしょう。

勤勉であれば、頑張る必要はない

中学卒業後は工業高校の工業デザイン科に進学しました。ある高校に行きたかったそうですが、先生から「ちょっと難しい」と言われて、それではと選んだのが工業デザイン科でした。しかし、その事も独特の感性で受け入れます。

「わたしは切り替えが早いんです。決まったら文句を言わずに従う。その上で、次の機会を待つんです」

高校の授業は木工中心で、期待していた「かっこいいデザイン」を学ぶ機会はありませんでした。一時は授業へのモチベーションが下がったのですが、秋田さんは気持ちを切り替え「次」を狙います。卒業後に就職する生徒が多い中で、大学進学を目指すことにしたのです。

そして高校卒業後、美術予備校に通いながら1年浪人してコツコツと受験勉強を続け、愛知県立芸術大学美術学部に合格します。

「受験勉強を必死にはやらなかったけど、さりとてさぼりもしないんです。遊んだ時間があると、それを取り戻そうと思って頑張るじゃないですか。でもずっと勤勉にやっていると、そんなに頑張らなくてもいいんです。コンスタントにやることは、今でも大切にしていることの1つです」

大学では若者らしく楽しく過ごし、あっという間に就職活動の時期を迎えました。当時は就職難の時代。その中で大手自動車メーカーを受けましたが、それはこどものころに抱いた「カーデザイナーになりたい」という夢を叶えるために……というわけではないのが、現実的な秋田さんらしいところです。

「クルマやバイクは好きだったけど、免許も持っていませんでした。今も持っていません。プロダクトデザイナーにとって自動車会社は「デザインの頂点」みたいなところで、そこに受かったら次の世界に移りやすいと思っていたんです。」

面接は和やかな雰囲気のまま終わり、内定の手応えを得ていたのにも関わらず、結果は不採用。その「熱のなさ」が伝わってしまったのかもしれません。

自分が進むべき道を確信した、若き日のニューヨーク

その後、秋田さんは一切就職活動をしませんでした。投げやりになったわけではありません。

「まわりはわたしに対して『自分でどうにかする人』だと思っているんです。だから、今に至るまで先の事を心配された覚えがりません。何より、本人がどうにかなると思っていました。」

実際、大学の教授が「受けてみない?」と薦めてくれたプロダクトデザイナーの求人に応募すると、すぐに採用が決定。それが中途採用の枠だったと知ったのは、合格した後のこと。そうして大学卒業後の1977年からはたらき始めたのが、音響メーカーのトリオ(現・株式会社ケンウッド)。ここで、秋田さんはすぐに頭角を現します。

入社して間もない1年目の夏、社員研修として大阪の家電の量販店で販売実習がありました。ある日、休憩室にあった毎日新聞をたまたま手に取ると、毎日新聞が主催する「毎日インダストリアルデザイン賞(毎日ID賞)」の告知が掲載されているのが目に入ります。

これはテーマに沿って考案したデザインを送るもので、第26回の主課題は「企業の求めるデザイン」。秋田さんは「オーディオ・コンポーネント」のデザイン案で応募して、最高賞の「特選1席」を受賞。さらに自身がデザインしたヘッドホンが製品化されるなど、1年目から次々と結果を出し、プロダクトデザイナーとしてこれ以上ないほど順調に歩み始めます。

そんな秋田さんが自分の進むべき道を確信したのは、ニューヨーク近代美術館を初めて訪ねた、27歳の時でした。そこには、ドイツの著名なプロダクトデザイナー、リチャード・サパーとマルコ・ザヌーゾがデザインしたテレビ「BLACK ST 201」が展示されていました。ブラウン管を箱で隠した、シンプルな黒いキュービック状のテレビを前に、秋田さんは息をのみました。

「工業デザインって機能や価格など、いろいろな要素、制約がある。それらをすべて統合し、突き詰めていくとただのシンプルな形になっていくと思っているんです。『BLACK ST 201』を見た時、自分が目指しているデザインと、世界で良しとされているものは一緒だなと思って、それ以来、仕事に迷いがなくなりました」

BLACK ST 201

もめないために高い家賃を払う?

トリオで5年勤めた秋田さんは1982年、ソニーに転職しました。ソニーには優秀なデザイナーが集まっていましたが、トリオでの仕事が雑誌に掲載されるなど、多くの実績を積んできた自信から、気後れすることはなかったといいます。

ソニーでは主に、業務用のパソコンモニターやCDプレイヤーのデザインを担当しました。しかし、3年目には「タイマーがピカピカ光り始めて」、5年目の1988年に退職と独立を決めました。そのタイマーは、なんの警報だったのでしょうか?

「出世をするために会社に入ったわけではありませんでした。もともと、ソニーを出たらどうにかなるだろうと思って転職したから、会社に留まる理由もありませんでした」

トリオとソニーの2社で腕を磨いた秋田さんは、退職後すぐ、秋田道夫デザイン事務所を立ち上げます。35歳、経験も豊富でプロダクトデザイナーとして脂ののった時期です。ところが、期待したほど仕事が来ません。食うに困るほどではなかったのですが、いわゆる「売れっ子」とはほど遠い状態。

現在の秋田さんの言動からは想像がつきませんが、当時は「あまりに思い通りにならなかったり、変なことを言われると辞退してしまうわけです」。独立したばかりで尖っていたのでしょう。

そのころすでに結婚し、子どももいた秋田さんが自分を律するために選んだ手法は独特です。あえて家賃が高い賃貸住宅に住んだのだそうです。家賃を払うためには、それなりの収入を得なくてはなりません。ということは、クライアントとうまく付き合わなくてはならない。なんとも秋田さんらしい論法でした。

そして、もう1つ心がけていたのが「武士は食わねど高楊枝」。

「最初のころは焦りもありましたけど、すぐに焦り疲れました(笑)。請け負った依頼では良い仕事をしてるわけだし、これ以上やりようないじゃん、という感覚ですよね。やるべきことはやったら、その後に仕事がくるかどうかは相手次第ですから。ほかにできることがあるとしたら、余計な出費を抑えることだけでした」

営業はしない。ただ「心から褒める」だけ

独立してちょうど10年経った1997年のこと。それまで積極的に営業活動をしてこなかった秋田さんだですが、ふと思い立って東京ビッグサイトで開かれた「国際福祉機器展」に売り込みに行きました。

しかし、まったく手応えがないまま会場を後にすることに。肩を落として通路に出たら、反対側の会場で「自動機器展」が開催されていました。軽い気持ちで覗いてみると、入口の近くでセキュリティゲートの試作機のデモンストレーションをしています。初めてセキュリティゲートを目にした秋田さんは、その場にいた説明係の人に「これ、かっこいいですねえ」と話しかけました。

そこで少し言葉を交わすと、説明係の人が思い出したように言ったのです。「そういえば、設計者がデザイナーを探しているんですよ」。名刺交換をして別れた翌日、セキュリティゲートを開発した企業から電話があり、次の日には打ち合わせに行きました。

「そのころはまだセキュリティゲートというものが珍しく、セキュリティゲートって何?というところから話が始まりました。でも、幸いぼくは工業デザインならどんな依頼でも楽しめるんです。既存のものがあれば、それをどう改良するかというアイデアがどんどん湧いてくるんですよ」

こうして完成したのがセキュリティゲート「TAG-5000」。2003年4月に竣工した六本木ヒルズなどに導入されています。その進化版の「TAG-9000」は虎ノ門ヒルズ、GINZASIXなどで現在も活躍中です。偶然にも、セキュリティゲートと同じような形で仕事につながったのが信号機のデザインです。

「高校時代の友人からプロダクトデザイナーを探している会社があると連絡をもらいました。話を聞くと、直径30センチほどの大型の照明器具を作りたいということでした。そのデザインをすることになり、信号機メーカーなら大型照明器具を作れるかもしれないと、大牟田市の信号電材を訪ねたんです」

日本には信号機を作っている会社が4社あり、最後発メーカーが信号電材でした。同社に足を運び、初めて間近に見る信号機の巨大さに驚きながら、秋田さんは「おもしろい!」と案内をしてくれた信号電材の社員に話したそうです。すると後日、同社から信号機のデザインについて相談の連絡がありました。

「おそらく、社外のデザイナーに依頼をするという慣習がなかったと思うんです。でも、工場見学の時に信号機に関心を持っていたわたしに依頼したらと社員の方が社内で提案してくれたんです。」

前述したように、秋田さんがデザインした薄型のLED信号機は2006年にデビューして、今や日本全国で活用されています。セキュリティゲートと信号機という秋田さんの代表的な仕事に共通しているのは、「褒める」ことから始まったということ。

「例えば、セキュリティゲートの説明係の人に、自分はいい仕事をするからやらせてほしいなんて売り込んだら、仕事になっていなかったと思います。どちらも打算なく、ただ単純に感動を伝えました。そう考えると、良いなと思ったことは口に出すというのは大切なことですね」

秋田さんがデザインした薄型のLED信号機

「良いデザイン」よりも「相手を喜ばせること」を大切に

1988年に起業してから、35年。秋田さんはほかにもワインセラー、テープカッター、ベビーソープのボトル、IoTセンサー「piccolo」、おろし金などジャンルを問わず、たくさんのプロダクトをデザインしてきました。そのデザイン性が高く評価され、これまで国内外で受賞したデザイン関連のコンペティションは17つ。2020年には、「ルーペシリーズ」が、世界一受賞が難しいと言われる国際的デザイン賞「German Design Award」で最優秀賞の「Gold」を獲得しています。

デザイナーとして長きにわたり第一線で活躍している秋田さんのポリシーは「相手を喜ばせること」。

「どの仕事でも結果は出せるし、結果を出せば次のステップにいける。だから、初めから2段上を狙わないことです。今いる場所、目の前の仕事が縁だと思うから、一緒にやろうと言われたところに行き、それに取り組むべきだと思います。ぼく自身は良い仕事をしようというよりも、相手が喜んでくれたら良いなと思っているだけなんですよ」

意外なことに、秋田さんは「自分の能力や仕事に対する見積もりが低い」と言います。だから、大それた夢を追わず、売れっ子になることも目指さず、たんたんと仕事を続けてきました。子どものころから変わらないその姿勢が、唯一無二の個性となり、今も輝きを放っているのです。

プロダクトデザインとは何か? 秋田さんが2022年10月25日 にX(旧Twitter)に投稿した言葉は、約3000の「いいね!」がつきました。

デザインというのは無駄を無くす行為です。無駄をはぶいてはぶいて「はぶき過ぎて」寂しくなったら線一本色一つ面を一つ加えて整えるのがデザインです。小学生でも描けるようなカタチに落とし込まれてこそ本物のデザインです。あっけなく見えるものほど普遍です

(文:川内イオ 写真:小池大介)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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