約束された未来はない。日本の全市町村を巡った写真家・仁科勝介が旅に出る理由

2024年3月6日

「1,741ある、日本の全市町村をスーパーカブ(オートバイ)で巡り、写真を撮影してきました。行ったことのない町はありません」。

気の遠くなるような旅の話を、なんでもないことのような口調で語るのは、「かつお」の愛称で親しまれる写真家の仁科勝介さん。

仁科さんは大学在学中に日本の全市町村を巡る旅に出発。その様子を伝えるWebサイト「ふるさとの手帖」がSNSを通じて話題を呼びます。そして、「目の前にあるチャンスを逃すまい」と本格的にフリーランスの写真家として活動を始めたのは23歳の時でした。

その後、25歳で日本一周の旅を記録した写真集『ふるさとの手帖』(KADOKAWA)を出版し、その後台湾で同書の翻訳版『環遊日本摩托車日記』(日出出版)が発売。現在は写真のほか、エッセイや紀行文などの文筆業も行うなど、幅広く活動を行っています。

そんな仁科さんは2023年4月より2度目の日本一周の旅に出ています。「今回は少なくとも2年がかりの道のりになりそうです」と語る長旅の目的は「旧市町村を巡ること」。

仁科さんは、なぜ再び旅に出たのでしょうか? そこには、仁科さんが写真家として活動していく上で、「避けては通れない理由」がありました。

「球場で撮影をするカメラマンに嫉妬した」

幼少期より野球少年だった仁科さん。小学校では地域の野球チームに所属し、中学時代に在籍した野球部では県大会に出場するも、高いレベルの選手と試合をするうちに自分の才能では「これ以上のレベルには行けない」と悟ります。

そうして野球部の引退を機に仁科さんが手に取ったのが、カメラでした。「野球以外にすることがなかった」という仁科さんは、それまで貯めてきたお年玉で「Nikon D3000」というデジタル一眼レフカメラを購入します。

「入門機」と呼ばれる製品ではあったものの、中学生にとっては一世一代の買い物。そうしてはじめて自分のカメラを手にした時の気持ちを「とにかくうれしかった」と振り返ります。

幼少期より野球一筋、グラウンドで白球を追いかけ続けてきた少年が写真に興味を持ったのはなぜなのでしょうか。

「プロの試合はもちろん、部活の大会などでも記録をするためにカメラマンが球場に来ていることってありますよね。そんなカメラマンの姿がやけに格好良く映って、選手として試合をしながらも気になっていたんです。ほかの人とは違う場所に立ち、違う目線で野球を見ている姿に嫉妬したんですよね」

そんな漠然とした憧れからカメラを手にした仁科さんは、高校に進学すると写真部に入部。しかし、カメラを手に入れたものの、どうすれば上達するのかが分からず、とにかく身の回りの風景を収める日々が続きます。

身近な友人たちや、生活圏内の何気ない風景。「スナップ」と呼ばれる手法で切り取り続けていました。何が正解かはわからないまま手探りで撮影をする。そんな日々がとにかく楽しかったのだと懐述します。

人数は多くなく、「決して活発とはいえない」写真部に所属していた仁科さんは、次第に学外での活動に目を向け始めます。

そんなある日、耳に飛び込んできたのが「写真甲子園」という全国規模の学生写真家のコンペティションでした。作品を応募し、予選を通過すると決勝に進出。決勝ではプロ写真家の講評のもと、その年の優秀作品が決定されます。

もともとスポーツという勝ち負けのはっきりした世界に身をおいていた仁科さんは、写真甲子園で決勝進出を目指して応募。しかしながら、結果は惨敗。残念ながら、高校在学中の3年間のうちに予選を通過することは叶いませんでした。

「他校の写真部はプロの指導者がいるところもありますが、ぼくの母校はそうではありませんでした。写真の指導を受けたこともありませんでしたし、『いい写真とは何か』がわからないまま撮り続けていたので、当然の結果だったかもしれません」

得点や明確な勝敗のない世界。その難しさ、残酷さが仁科さんの前に立ちはだかった瞬間でした。しかし、その「わからなさ」が仁科さんのモチベーションを上げることにつながります。

仁科さんは広島市内の大学に進学後、写真部に入部。そこでは写真部の先輩や仲間たちと出会い、より写真にのめり込んでいくことに。そして、大学1年生のある日、はじめての一人旅に出ることを決意します。

苦い思い出が残るヒッチハイク九州一周の旅

大学に入学して迎えた初めての夏休み。海外旅行へ行く友人たちを横目に仁科さんが思ったのは「自分は日本国内のことでさえ、全然知らない」ということでした。

「知る」というのは簡単なことではありません。「東京がどんな町であるか」ということは知識として知っていても、その目で見なければわからない。いや、実際にその目で見たとしても、本当に知ったことになるのだろうか?その答えは現在も模索中とのことですが、仁科さんは「自分の目で見なければ何も進まない」と感じたのだそうです。

そうして計画したのが九州一周の旅でした。大学に入ったばかりで資金もない。だけど時間と行動力だけはあるという若者の特権を活かし、カメラを片手にヒッチハイクで九州を旅することに。

好奇心に身を任せて計画した旅には、当然、苦難が待ち受けています。まず、最初に乗せてもらえる車が見つからない。長距離移動する車をキャッチするために高速道路付近でヒッチハイクを行っていると、警察に声をかけられ「ここでは危ないから」と移動を余儀なくされます。

なかなか乗せてもらえる車が見つからない仁科さんの頭に浮かんだのは、車が止まっている場所に行こうということでした。そうして近隣のコンビニに足を運び、停車している車のドライバーに声をかけると、今度はあっさりとヒッチハイクに成功。そうして合計20台以上の車に乗り継いで巡った九州の旅は9日間で幕を閉じます。

旅を終えた仁科さんが感じたのは、スタンプラリーのように全県を回っただけで、「自分が見たいものは見られなかった」という悔しさでした。

「はじめて訪れる町の景色は新鮮でしたが、いくら写真を撮ってみても表面をなぞっているような感覚は拭えませんでした。その土地を知り、撮影するということは簡単ではない。自分自身が町と向き合う姿勢を変える必要があると感じました」

そして、その思いが仁科さんを次の旅に向かわせたのです。

長崎県福江島で撮影した一枚

「生活者の風景」をカメラに収めるために日本一周へ

九州の旅を終えた仁科さんは学業にいそしみ、大学3年生までに単位のほとんどを取得。同時にアルバイトにも精を出し、貯金をする日々。次の大きな旅への準備期間と決め、大学生活を過ごしました。

そして迎えた大学4年の春。周囲は就職活動真っ盛りの中、いよいよ次の旅に出ます。それが日本一周、全市町村を巡る旅でした。九州の旅の反省を活かし、移動は小回りの利く原付バイクで行うことに。仁科さんに許された時間は1年間。残りの大学生活をかけての大きな挑戦です。

しかしながら、旅の初日からやはり大きな困難が待ち受けていました。

愛車のスーパーカブに最低限の荷物を乗せ、いざ出発したは良いものの、なんと初日に転倒してしまい一時入院を余儀なくされるほどの怪我を追ってしまいます。結果は全治2カ月。なんと、旅は初日にして続行不可能となり延期を余儀なくされました。

治療を終えたのち、6月に再度旅に出た仁科さんは、この旅で自身のキャリアを大きく切り拓くことになります。時間をかけて各市町村を巡り、その町の風景を切り取る。仁科さんのカメラがフォーカスしたのは、その土地の「生活者の風景」でした。

岐阜県下呂市にて撮影
北海道 斜里町にて撮影

駅前を歩く人々の姿や、通学する学生たちの後ろ姿。あるいは、観光地ではなく、地元の人に親しまれているような何気ない風景。その地域に向き合うことでしか見えてこない風景をカメラに収めていきます。

地域外の人に向けられた町の姿ではなく、地域の中に入り込んで撮影されたその写真は、「私たちの暮らす町の姿だ」と、多くの人の心を揺さぶります。

リアルタイムで精力的に発信を行っていたこの旅の様子はSNSを中心に大きな話題を呼び、「ほぼ日」をはじめとする多くのメディアで取り上げられました。

自分の撮影した写真が誰かに届き、反応が返ってくる。その実感こそが仁科さんが旅を続ける上での糧となり、写真家としての成長を促しました。

そして、9カ月間の旅を終えた仁科さんは、すでに写真家として大きな一歩を踏み出していました。

長野県伊那市にて撮影

「ほぼ日」との出会いを機に東京へ

日本一周の旅を経て大学在学中に写真家として大きな注目を集めた仁科さんでしたが、そのままフリーランスの写真家として活動をはじめるのではなく、大学卒業後、地元の写真館ではたらきはじめます。すでにいくつか仕事の依頼は舞い込んでいたものの、長いキャリアを見据え、経験を積むことを優先したのです。

写真館での仕事は学校の行事を中心に、イベントや記念写真を撮影するというもの。それはこれまで自分の感覚や感性を頼りに撮影してきた写真とはまったく別のものでした。

「最高の瞬間を写真に収めるため、被写体の笑顔を引き出すコミュニケーションが求められます。また、どんな状況下でも対応できるライティング技術など、まったく違うスキルが必要なんです」

新たな環境下に身置き、経験を積む日々。写真家として下積み期間が続いたある日、「このままこの環境に身を置くことが正解なのだろうか?」という疑問が湧き起こります。

写真館では技術的な上達は見込めるものの、当然、自分が心から撮りたいと感じている「生活者のいる風景」を撮れるわけではありません。ならば技術的には未熟であっても独立し、自分自身でキャリアをつくり上げていくのが近道なのではないかと考えたのです。

また、写真家として活動していくのならば、いずれ多くの写真家が切磋琢磨している東京に拠点を置いて活動をしたいという思いも少なからずありました。そんなある日、仁科さんに転機が訪れます。

「ほぼ日さんが運営するギャラリーで写真作品の展示をしないかというご依頼をいただいたんです。まだキャリアも経験も浅い僕にそんな機会が巡ってきたんです。こんなチャンスは二度とない。もちろん不安はありましたが、こんなを逃したら一生後悔することは間違いありません」

この展示会が後押しとなって、仁科さんは東京へ拠点を移す決断をします。二つ返事で東京での展示を引き受けた仁科さんは故郷を離れ、単身東京へと上京。撮りためた旅の写真を展示した「1741のふるさと」には多くの人が訪れました。そうして、「写真家」としてのキャリアを本格的に歩み始めたのです。

「1741のふるさと」にて展示された写真

展示を終えた仁科さんの元へは、さまざまなメディアから写真撮影の依頼が舞い込みます。風景写真の撮影や著名人のポートレートなど、「想像もしていなかった多くの仕事と出会うことができた」そうです。

その仕事の幅広さ、難しさに頭を悩ませながらも、試行錯誤を重ねる日々。写真家に同じ「現場」は一つとしてありません。その日、その瞬間に答えを出さなくてはならない厳しい世界です。そんな中でも、デザイナーや編集者の方と協働し、着実に経験を積んでいきました。多種多様な撮影を行っていく中で、写真館ではたらいた経験が、現場で活かされたことも少なくなかったそう。

また、写真だけでなく、旅の記録を読んだクライアントから執筆の依頼が舞い込むことも少なくありませんでした。独立から4年が経った2022年は、20以上のメディアで連載を抱えるほど多忙な日々を過ごしていたといいます。

写真家に『約束された未来』はない。直感で決めた2度目の日本一周

そんな仁科さんは、2023年の春から2度目の日本一周の旅に出ることを決意します。その目的は「日本の旧市町村を巡る旅」。旧市町村を巡ることで、失われかけている日本各地での暮らしと出会えるのではないか。そして、それこそが「自分が撮るべきものだ」という思いが膨らんでのことでした。

「これまで、旅を通じて日本各地の生活の風景を収めてきました。9カ月かけて日本を巡る中で、統合した市町村の話を聞く機会は少なくありませんでした。『旧市町村』という枠組みで旅をすることで、これまでとは違ったルートを辿ることになりますし、今はなくなってしまった町の景色に出会えるのではないか。そして、それを撮ることが、僕が写真家として進んでいく上で、避けては通れないものだと実感したんです。

前回の旅の途中に『いつかまた』とは考えていたのですが、思ったよりも早く『いつか』が訪れてしまいました(笑)」

仁科さんは、大きな決断であればあるほど「直感を大切にすること」を重視しています。そして、直感的に描いた未来を実現するための計画を練る。それは学生時代に日本一周の旅を計画した時も同様でした。

学生のころと大きく異なるのは、すでに仁科さんが多くのクライアントとの仕事を抱えていることでした。旅に出るとなると、当然、これまでのように東京を拠点にした仕事の仕方を変える必要があります。継続して引き受けていた撮影や連載執筆の仕事に区切りをつけ、入念な準備をしてきました。

そして2023年4月、東京の家を引き払った仁科さんはスーパーカブに旅の道具を積み込み「日本の生活の原風景」を求める旅に出ました。各地を巡りながら、クライアントから撮影の依頼があれば旅を一時中断し、旅先から撮影場所へと向かう。「根無し草の生活」がはじまったのです。

いずれも東北地方で撮影

2023年10月現在東北地方を巡っているという仁科さんに「今回の旅は、いつまで続くのか?」と問いかけると、少なくとも2年以上の歳月をかける見通しだとの返答。前回の旅では「卒業」というタイムリミットがありましたが、今回はじっくりと時間をかけて旅をする計画なのだといいます。

「撮らなければいけないものがある」。仁科さんは旧市町村を巡る旅の目的を、そう表現しました。その言葉の裏にある思いを知るべく、もう一度問いかけてみます。仁科さんはなぜ、旅に出るのでしょうか。

「……なぜでしょうね。正直なところ、僕自身もよくわかってないんです(笑)まだまだ未熟で、写真家としてどうなっていきたいのかもわかりません。でも、今やらなければ後悔するし、これは僕自身がやらなきゃいけないという確信はあるんです。

写真家に限らず、仕事やキャリアというものは『こうすればこうなる』というように約束された未来が待っているものではないじゃないですか。だったら、直感や、その時々で自分が大事にしたいことを信じるしかない。いまの僕にとっては、『今の日本に暮らす人々の風景を未来に向けて残す』ということが大切なんです」

仁科さんが続けるこの旅の先に、どんな未来が待ち受けているのでしょうか。

(文:高橋直貴 写真:仁科勝介)

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