30歳からの挑戦。ラーメン店「蔦」・大西祐貴さんが世界初ミシュラン一つ星を獲得するまで

2021年10月11日

巣鴨から駒込まで続いた行列

2015年12月3日、東京・巣鴨(当時)のラーメン店「Japanese Soba Noodles 蔦(つた)」の店主、大西祐貴さんは目を疑いました。

朝から店の前にお客さんが並び始め、11時に開店するころにはそれまで見たこともない長蛇の列。現場でその様子を目撃していた蔦のマネージャー・伊丹さんは、「巣鴨から(山手線の隣駅の)駒込あたりまで行列が続いていましたね」と振り返ります。

このフィーバーは、2日前の12月1日に発表された「ミシュランガイド東京2016」のセレクションが理由でした。1900年にドライブを楽しむためのガイドブックとして創刊されたミシュランガイドの歴史の中で、史上初めてラーメン店として一つ星を獲得したのです。

翌営業日の12月3日になると世界で唯一の「ミシュラン星付きラーメン」を食べようとお客さんが怒涛の波となって押し寄せました。それからは連日行列ができるようになり、最後尾の人がラーメンを食べるまでに4時間かかることも珍しくありませんでした。

「ミシュランガイド東京2016」から4年連続で星を獲得し続けた蔦は海外でもその名を知られる存在になり、着々とグローバル展開が進んでいますが、2019年12月に巣鴨から移転して開いた代々木上原の店では、大西さんが今も厨房に立ちます。

代々木上原に移転後も一杯3,550円のラーメンを出すなどラーメン界の常識を覆してきた大西さんは、どんな若手時代を歩んできたのでしょうか?

父親のラーメン店、新聞配達を経てアパレル企業に就職

「明日からラーメン屋やるんだけど、手伝ってくれないか?」

普段それほど言葉を交わす間柄でもなかった父親と道端で偶然顔を合わせ、そう声をかけられたのは高校を卒業してすぐのころでした。

勉強が「大嫌い」で、中高生時代、あまり学校に通っていなかった大西さんは、漠然と好きな音楽の道に進みたいと思っていました。しかし、そのハードルは高く、高校を卒業してからの進路は決まっていません。

「することもないし、まあいいか」と、大西さんは父親が地元神奈川県の藤沢で開いたラーメン店「七重の味の店 めじろ」ではたらき始めました。

しかし、これがきっかけでラーメン作りの才能が芽生え……という話にはなりません。当時は父親から指示されたことをするだけのアルバイトの一人。結局、「ラーメン屋の仕事にのめり込めなくて」、4年で辞めました。

その後、プライベートで借金があった大西さんは返済のために新聞配達を始めました。小さなアパートでひとり暮らしをしながら、ひたすら朝刊、夕刊を配っていたら、あっという間に2年が経ちました。この時、同じ職場ではたらいていたのが、蔦のマネージャー・伊丹さんです。ふたりが一緒にはたらき始めるのは、もう少し後のこと。無事に借金を返済した大西さんは、以前から興味があったファッションの道に進むことにしました。

新聞屋ではたらいていた時、営業成績がまあまあ良かったんですよ。それで、僕はファッションが好きだから服の営業でもしてみようかと思ったんです。調べたら東京のアパレル会社が募集をしていたので面接を受けたら、採用されました

そのアパレル会社は、日本で売れそうな海外ブランドを発掘し、代理店契約を結んで日本のバイヤーに販売するのが主な業務でした。大西さんはその業務の中核を担う「海外事業部」に配属されました。

仕事で行き詰った時に蘇った想い

それからは、1年に2回、ブランドの展示会が行われるニューヨーク、ロサンゼルス、ラスベガスに出張する生活になりました。最初のころは会議に出ていても英語なので、なにを話しているのかさっぱり理解できず、「思わず居眠りをしちゃって、あとですごく怒られました」と苦笑します。

しかし、このころから分からないことは徹底的に調べるようになりました。学校の勉強は興味が持てなかったという大西さんですが、ファッションの仕事は楽しかったので、自分が扱うブランドについて学ぶことは苦にならなかったそうです。その熱心さが評価にもつながり、国内のセレクトショップの営業を任されるなど次第に責任のある立場になっていきました。

「僕らの仕事って、エンドユーザーからしたら完全に裏方じゃないですか。でも、僕たちがいるから消費者の方々に服が届くんだと思うと、いい仕事だな、かっこいいなって思っていました」

海外出張にもすっかり慣れた3年目。アメリカで食事をしていた時にふと、後のラーメン店開業につながる想いが、頭をもたげました。

「アメリカは、ソースで食べさせるような味が濃いものが多い。やっぱり、日本人としては出汁で食べるものがもっとあったらいいな」

しばらく大西さんの胸のうちで眠っていたこのなにげない想いが目を覚ましたのは、それから2年後。アパレル業界で2度転職し、3社目で行き詰まった時のことでした。

「3社目で担当したブランドが僕と相性が合わなくて、まったく売れなかったんですよ。ヨーロッパのレディースブランドだったのですが、今までの取引先とは違うから、それまでに築いた知識やノウハウが使えなくなってしまって。これは無理だ、これじゃ迷惑かけるだけだと思うようになりました」

この先どうしようと悩んでいた時に思い出したのが、アメリカ出張中に感じたことでした。父親のラーメン店ではたらいた経験があったので、大西さんの頭の中で「出汁の効いた食べ物」とラーメンがすぐに結びつきました。

それまで特にラーメンに思い入れはなく、気が向いた時にたまに食べる程度でしたが、次第に「出汁を効かせたラーメンは、世界に通じる。日本食として、もっとラーメンを広げたい」という気持ちがどんどん強くなっていきました。そしてある日、腹をくくりました。

「ラーメンで勝負しよう」

アパレル会社を辞めた大西さんは、代々木に移転していた父親の店「七重の味の店 めじろ」で再びはたらき始めました。この時、30歳でした。

修業をしながら「自分の味」を模索した日々

高校卒業後にはたらいていた時はラーメン作りに興味がなく、ほとんどなにも覚えていませんでした。そのため、父親のもとでイチから修業を始めます。

ラーメンは製麺、たれ作り、スープ作りと工夫できるポイントが山ほどあり、しかも答えはありません。大西さんはひと通りの仕事をおぼえながら、父親のマネではなく、オリジナルのラーメンを作るために研究を重ねました。

どちらかと言えば「感覚的」だった父親のラーメン作りに対して、大西さんはスープの温度を計る、たれとスープの量、食材の分量やその比率をしっかり計量するなど数字を大切にしました。他店のラーメンを食べ歩くこともほとんどなく、自分の味覚を信じて繊細な工夫を重ねていきます。

そうして3年も経つと、「自分の味」と思えるラーメンが完成。この味で勝負をしようと、独立を決めました。

もともとは神奈川県に戻ろうと思っていたそうですが、以前から慕っていた新宿のラーメン店「金色不如帰」(「ミシュランガイド東京2019」で一つ星獲得)の店主、山本 敦之さんから「どうせなら東京で勝負しようよ」と言われて、東京に店を構えることに。

店の場所は山手線内が希望で、立地と家賃と坪数を見て、もともと小料理屋だった巣鴨の店舗を借りることにしました。巣鴨は「おばあちゃんの原宿」とも称されるエリアで、ラーメン好きの若者はそう多くないイメージがありますが、町を歩く人の層は気にしなかったそう。

「それまで、巣鴨に行ったこともなかったんですよ。その時は数軒しか空きがなかったから、もうここにするかって。客席も9席だったけど、一人でやるのにはちょうどいいし」

味を守るのではなく、進化させる

2012年1月26日、化学調味料は使用せず、食材の本来の旨味を引き出した「日本が誇る日本人らしいラーメン」をコンセプトに掲げる「Japanese Soba Noodles 蔦」を開店。ここから、大西さんの終わりなき挑戦が始まりました。

現在の蔦で提供している自家製麺は、フランス産オーガニック小麦と国産小麦と自家製粉を配合し、天然由来の内モンゴルかんすいを使用したもので、石臼を使って香りを際立たせるなど工夫を凝らしています。

スープは、青森シャモロック、天草大王、黒岩土鶏、純系名古屋コーチンという4種類の地鶏から煮だしたスープに、あさりや天然羅臼昆布などの魚介と香味野菜を合わせて抽出したもの。

しかし、この組み合わせや比率は常に変化しているのです。大西さんは味を守ることよりも、味を進化させることに心血を注いできました。だから、オープン当初のレシピからはすでに別物になっているそうです。

「食材一つにしても、妥協するのは嫌なので徹底的に調べます。そうやって毎日勉強しているから、どんどん新しい知識が入ってきますよね。そうすると、僕の中のレベルが上がるわけです。であれば、ラーメンのレベルも上がらなきゃおかしいじゃないですか」

世の中には、昔ながらの味を大切にする「伝統」を売りにするラーメン店も数多くあります。そういった「伝統の味」は求めていないのですか?と尋ねると、「求めてません」と即答しました。

この攻めた姿勢が如実に表れたのが、2014年7月にリリースした黒トリュフの醤油ラーメンです。スープの素材には、トリュフオイルに加えてポルチーニ茸、モリーユ茸、フィグコンポート(イチジクの砂糖煮)やトリュフ入りのバルサミコクリームを使用。醤油ダレは、国産の原料を使った和歌山の非加熱の濃口醤油をメインに3種類の醤油をブレンドし、牛肉や、ムール貝などのダシとブレンドしています。

今や蔦の代名詞となっているこのラーメンは、どのように生まれたのでしょうか?

「もともと、トリュフオイルを使っている店はあったんですよ。でも、誰も醤油には使ってなかったんですよね。それで差別化したいなと思って、作りました。その時から店が忙しくて、営業中は試作する時間もないので、店に泊まって試作してっていうのがほとんど毎日でしたね」

2013年、『ラーメンWalker グランプリ』の全国新店部門で金賞を受賞し、オープンからわずか1年で行列のできる店になっていた蔦は、大西さんが寝食を惜しんで生み出した黒トリュフの醤油ラーメンによって全国区に駆け上がります。

ミシュランの一つ星を得て世界で唯一の存在に

2014年には『ラーメンWalker グランプリ』の全国総合ランキングで金賞を受賞し、日本一の評価を得ました。さらに、同年末に発表された『ミシュランガイド東京2015』で、ビブグルマン(5,000円以下のお店の中でコストパフォーマンスが高い店)に選出されました。

この時、ビブグルマンに選ばれたラーメン店は22店舗あり、その店主たちがミシュランセレクトの発表会に招待されました。大西さんは「僕もうれしかったし、みんな喜んでましたよ」と振り返ります。

しかし、そこで蔦の快進撃は止まりません。

翌年には、ラーメン店として世界初の一つ星に輝いたのです。会場に出向くと、ビブグルマン受賞時とは比べものにならない数のメディア関係者から取材を受けました。冒頭に記したように、その反響は想像をはるかに越えるものでした。

「発表された瞬間からフェイスブックの友達申請がすごくたくさん来て、ビックリしましたね(笑)。翌日からお店の電話も鳴りっぱなしで。お客さんが朝の6時ころから並び始めるようになって、近隣の住民の方々の迷惑になっちゃうので、整理券を配るようにしました。ラーメンは1日に出せる杯数が決まっているので、朝7時に整理券を配ったら、その時に並んでいる人だけで1日分が終わりました」

今も厨房に立つ理由

大西さんのもとには、たくさんの業者から海外展開のオファーが届きました。その中でパートナーに選んだのは、朝6時から行列に並び、整理券を受け取ってラーメンを食べに来たシンガポールの企業でした。2016年11月、シンガポールに海外一号店を出店。

それから現在に至るまで、シンガポールに3店舗、香港に2店舗、サンフランシスコ、フィリピンのマニラ、タイのバンコクに1店舗をオープンしてきました。さらに今後、オーストラリアとニューヨークにオープンする計画もあるそうです。

海外でも、ラーメンと向き合う姿勢は変わりません。現地で調達できない素材は、すべて日本から輸出。地域によって水質が異なるため、水もなるべく大西さんの理想に近いものを用意して使用しているそうです。しかし、「日本と同じ味」にはこだわりません。

「現地の人たちの舌に合わせて、調整しています。特に日本以外のアジアの人たちは化学調味料を日常的に使っているので、無添加のものにあまり慣れていないんですよ。もちろん化学調味料は使いませんが、少し塩味を上げたりとか、そういったバランスを取ったりしていますね」

素材を変えることによる味の変化を恐れないように、海外では日本と同じ味も求めない。この柔軟性が、大西さんの発想力の源になっているのでしょう。

「中心部のもっと広いところでやりたい」と代々木上原に移転した直後に出した一杯3550円のラーメン、「黒トリュフチャーシュー味玉醤油Soba」と「黒トリュフチャーシュー味玉塩Soba」は、その象徴的な存在です。

ラーメンといえば1000円前後というイメージを打ち破る超高額のラーメンは、大きな話題を呼びました。

「トリュフを使ったラーメンがうちの代名詞になったので、その上をいってみようと思ったんです。それまでのレシピでもトリュフオイルは使っていましたが、このラーメンでは黒トリュフを削って載せました。そうしたら、毎回業者からの請求がとんでもない金額になってしまって(笑)」

今、大西さんの仕事は多岐にわたります。JALの機内食として蔦の混ぜそばを開発したり、セブンイレブンで蔦のカップラーメンをプロデュースしたり、蔦オリジナルブレンドのダシ醤油を商品化したりと多忙な日々。

それでも厨房に立ってお客さんにラーメンを作り、空いた時間には一人で試作を続けています。スタッフに店を任せて経営に専念することもできると思いますが?と尋ねると、大西さんはほほ笑みました。

「経営は苦手ですもん。僕はラーメン屋だから、ラーメンを作り続けていきたいですね」

(文:川内イオ 写真:小池大介)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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