「250年に1人」の栄誉を3度獲得。大仏師・向吉悠睦さんが語る仕事の流儀

2024年3月7日

鎌倉時代に活躍し、歴史の教科書でもおなじみの仏師・運慶、快慶。この偉大な2名が授かったという「大仏師」(だいぶっし)の称号を持ち、現代を代表する仏師として活躍するのが「あさば仏教美術工房」の向吉悠睦さんです。

向吉さんは地元鹿児島で8歳のころから修行を始め、仏像一筋54年。30歳で独立したのち、36歳の若さで大仏師号を受けるとともに、その技術により国内外で高い評価を獲得してきました。

現存する7名の大仏師の一人である向吉さんに、仏師を目指した幼少期や厳しい下積み時代の思い出、そして一流であるための仕事の流儀を伺いました。

父は魔法使い。8歳の少年が魅了された「仏師」という仕事

仏師とは、その名のとおり仏像の制作や修復を行う職業です。木仏、石仏、金仏と、職人によって扱う素材はさまざまですが、向吉さんは木仏師だった父の背中を見て育ち、自身も木仏師として歩んできました。

向吉さんは、現在7名しか存在しない「大仏師」の称号持っています。「大仏師(だいぶっし)」と聞くと、大きい仏像をつくる仕事をイメージしますが、そうではありません。大きい仏像を彫る人は『大仏師(おおぼとけし)』、5〜10cmほどの小さな仏像を中心に彫る人は『小仏師(こぼとけし)』と呼ばれるのだそう。

では、大仏師とはどのようなものでしょうか?

「『大仏師』とは、寺院の総本山・大本山から限られた仏師だけが賜る称号です。総本山クラスの寺院には、金堂や塔、門などを含む、七堂伽藍(しちどうらがん)(※)があります。塔を作るのが七堂伽藍作りの最後の仕事なのですが、その中の本尊を全国から集った仏師が彫っていくんです。仕事が完了し、本尊の法要が終わると、その仏師の中から大仏師が選ばれます」

※寺が備えている七種の建造物の総称

仏師の世界では「七堂伽藍がすべて出来上がるには250年の時を要する」と言われています。単純に計算すると大仏師の称号が与えられる可能性は250年に一人という計算になります。三重塔・五重塔・多宝塔など塔を建てるのが最後の仕事になり、その本尊を造仏した仏師に大仏師の称号が与えられます。総本山は基本増えていないため、現在では各御堂の本尊を造るとき、又は復元する時に大仏師号が出されたこともあるそうです。

なんと、現存する7名大仏師のうち、複数の寺院から大仏師号を与えられたのは向吉さん含め2名しかいません。

そんな向吉さんが仏師を志したのは、なんと8歳の時でした。仏師であった父親の姿を見て「うちには魔法使いがいる」とワクワクした日々を送る中で、仏師としての将来を思い描いたのでした。

「朝学校へ行く前に見た木の塊が、帰ってくると龍や仏像、花なんかになっているんですよ。本当に、魔法のようでした。家に帰ると父の真似をして木を彫っていましたね。そんな毎日を過ごしていた8歳の時、『ここに座らせてあげる』と、お弟子さんたちがいる工房の父の横に座らせてくれるようになりました。今思えば、修行のスタートと言えるかもしれません。

私の父のころは10歳から学校へ行かずに弟子入りするというのが普通だったそうです。私も遊びの延長ではありますが8歳からいろいろなことを教わり、自然と道具や木の扱い、仏像に向き合う上での礼節が体に染み込みんでいきました」

そんな楽しい気持ちのままに仏師修行を始めた向吉さんでしたが、5年が経った13歳のある日、父の態度が「鬼のように」一変したといいます。

「それまで自分で何百体と作ったものを『全部割って捨ててきなさい』と。父親の隣の席から、父の姿も見えないくらいの末席に移されました」

その出来事は、父親が正式に向吉さんを「息子」ではなく「弟子」として認めた上での洗礼だったのかもしれません。多感な時期に厳しい修行が始まったこともあり、大好きだった音楽の道に進むという選択肢が頭をよぎった時期もあったそうです。しかし、そんな迷いもありながら、自分の好きなこと、得意なことについて熟考し、中学を卒業するころには仏師の道へ進むことを決意しました。

「彫刻をやっている間は無心になれたし、ただただ好きでずーっと座って手を動かせる。音楽も好きでしたが、何時間も練習をするのはなかなか難しかったんですよね。自分が一番好きで、何十年もやり続けられる自信があるものといったら、彫刻しかなかったんです」

「兄弟子には歯が立たない」。仏像の奥深さを知る住み込み修行時代

中学卒業後は、普通高校へ通いながら、引き続き父親から手解きを受け、仏師としての学びを深める日々。そして高校卒業後は親元を離れ、京都仏像彫刻研究所の松久朋琳・宗琳氏の内弟子となり京都に行くことになりました。

「父は『弟子に出すならここだ』と決めていたみたいで、私が小学生のころから毎年手紙を送り続けていたんです。それで師匠が根負けして、高校2年の時に初めてお会いしました。鹿児島のど田舎にいましたから、京都での展覧会の会期中を目掛けて父親と京都を訪れ、自分の作品を見てもらったんです。そして、師匠から『いつでもいらっしゃい』という言葉をいただきました」

高校を辞めてすぐにでも入門したいと考えていた向吉さんでしたが師匠からは「卒業証書をもらってからにしなさい」と諌められたといいます。そして、高校卒業までは自宅で研鑽を続け、師匠の言葉通り、高校卒業を待って入門することに。

入門直後は住み込みで食事や掃除、師匠の身の回りの世話をしながら、彫刻の修行を積んでいきましたが、自分の実力不足を痛感します。

「小さい時から仏像に触れていましたのでそこそこ彫れるだろうと思って入ったんですけど、兄弟子さん方にはまったく歯が立ちませんでした。『彫る』以前に、造形やデッサンの能力が、みんな桁外れに素晴らしかった。

年に一度、弟子集団の展覧会があるのですが、その年に一番良い作品を作った人が師匠の横で仕事をすることになるんです。その席を得るために、どんなに年数を積んでいる人も必死でした。みんな仕事を終えた時間や休日に自分の作品を作っていましたね」

仏像の制作は、時に30kgもの丸太を担いだり、それを懐に抱えながら彫り続けないといけないそうです。「たくさんの仏像を作ってきましたが、どれもも全部難しかった」と話す向吉さんですが、中でも大仏(おおぼとけ)を作る作業は、小柄な向吉さんにとって特に大変なものだったそう。

「田舎から送ってもらったはちみつと黒砂糖を毎日のように食べ、体を大きくするよう努力しました。正直、彫刻よりも体をつくることがしんどかったです(笑)。持久力がないと仏像を作る仕事は務まりません。でも体を鍛えすぎると余計な筋肉がついて手先が疎かになってくるので具合が悪い。そのバランスには悩みました」

寺院に出向いて足場を組み大きな仏像を組み上げる「出仕事」では、自身の体力のなさと、兄弟子との技術の差を痛感したといいます。

「兄弟子は両手に仏様の部品を持ち、足だけで梯子を上っていたのですが、私だけそれができなかった。みんなできるのに、どうして私だけできないんだろう?と先輩方の動きや仕事の内容をじっくり見ていると、たとえば仏像の腕となる部分を二つに分けるなど、納品時に運びやすいように手順を考えて制作をしていたんです。

師匠にも『お前さん、彫っている時、これを現場で組み立てることは考えていなかっただろう』と言われましたが、まさに彫るので手一杯で、そんなこと考えもしませんでした。一人前に成長した兄弟子と新弟子との大きな差を感じた瞬間でした」

まだまだ自分は一人前ではない。「独立まで10年」と考えていた向吉さんですが、10年目に改めて兄弟子達の仕事の様を見て、もっともっと修行が必要だと感じました。そして、12年の時を修行に捧げることになります。

「入門して10年経ったころ、師匠から小さな阿弥陀様を彫ってみろと言われました。そのための資料を探していたら、『資料を見ずに最後まで自分で彫ってみなさい』と。

彫り始めてみると、仏像の背面に彫るべきの衣紋が2本、どうしてもからなかった。資料頼りの制作をしてきていたということ、仏様のお姿が自分に染み込んでいないことを痛感しました。そして、最後の2年は、仏像の細部までを記憶するということを意識して彫り続けていました」

「一生に一度」の機会に3度巡り会い、現代を代表する「大仏師」へ

30歳で晴れて独立し、自身の工房である「あさば仏教美術工房」を設立した向吉さん。幼少期から22年に渡って磨き上げたその技術は、国内外のコンクールで高い評価を獲得することになります。独立後は拠点である関西地方の中心に、全国の寺社に納仏する仏像を数多く制作してきました。そして、36歳で真言宗泉涌寺派大本山法楽寺から大仏師号を与えられます。

しかし、向吉さんは「大仏師だからといってメダルを獲ったように優遇されることはありません」と話します。あくまでも仏師の仕事は寺院との「縁」によって生まれるもの。その縁を大切にしながら、称号や世間の評価に浮き足立つことなく、仏像と向かい合う日々が続きます。

その後、39歳で高野山真言宗淡路島七福神霊場総本山八浄寺、49歳で真言宗豊山派西新井大師總持寺徳壽院から大仏師号を与えられました。

「一生に一度でも大仏師の称号を得られる仕事に巡り会えたら仏師冥利につきると言われるくらいなんですよ。そんな中、3回ものチャンスがあり、さらに大仏師に選んでいただけるということは本当に幸運なことです」

大仏師といえど、仏像だけを彫っている時代ではない

そんな偉大な称号を獲得した向吉さんですが、現在は仏像以外にもさまざまな彫刻作品を制作しているのだといいます。明治時代以降、仏師は仏像以外の彫刻を制作するようになったという歴史がありますが、向吉さんも例に漏れず、肖像やモニュメントの制作、フィギュアのプロデュースなど、その活動の幅を広げています。

「現在は美術館や博物館、個人の方など、寺院に限らず幅広くお仕事をいただいています。シカゴ美術館にモニュメントを作ったり、おもちゃメーカーの海洋堂さんと一緒に仏像のフィギュアを作ったりもしましたね。

最近は警察犬を育てていた方に『この子の姿を彫ってほしい』という依頼を受け犬の彫刻を作ったりもしました。動物の彫刻作品で展覧会を開催することもありますよ。仏師だからと言って、仏像だけを彫っている時代ではないかもしれません」

さまざまな依頼が舞い込む中で、向吉さんは仏像に限らず製作した作品の展覧会を積極的に開催しているといいます。そのきっかけは、小学校で法話をしたこと。お寺に行ったことがないという子どもの多さに驚き、学校に仏像を持ち込んで授業をしたり、百貨店で仏像に関する法話をしたりしているうちに、より多くの方に作品を見てもらう機会をつくりたいと考え、仏師だけでなく、彫刻仲間やガラス作家、陶芸作家などを集め、秀作展を開催するようになりました。

「実はアニメ作品には仏像の名前や仏教の言葉が入っていることが多いんですよ。それを説明した時にお子さんたちが興味を持ってくれたのがうれしかったですね。

仏像以外のものに仏教と今の子どもたちをつなぐ接点があるのではないかと思い、展覧会やお話会を増やすようにしてきました」

人々の求める「声」を聞く。時代を超えて拝まれる仏像を彫るための心構え

仏像の世界に足を踏み入れ50年。仏師一筋でこの道を歩んできた職人が仕事をする上で大切にしているのはどのようなことなのでしょうか。

「依頼者の言葉を汲み取った上で、仏様の表情や細部を作り上げられるようになったら一人前だと思います。お一人おひとりの気持ちや歴史、なぜその仏像が必要なのかは異なるので、1つとして同じものはありません」

技術の裏付けがあるのは当然のこと、仏像制作には「人の声を聞くこと」が欠かせない。更に、時代を超えて拝まれる仏像を彫るためには、人々が持つ根源的な苦しみを理解することが必要なのだと、過去の経験を振り返りながら静かに口を開きます。

「あるお坊さんに『ただ凛々しくて立派なだけのお不動様はいらない』と言われたことがありました。『私が苦しくて、泣きたくて、一緒に私と苦しんでくれるお不動様がほしい』と。その言葉を聞いた時は正直なところ『無理だ』と思いました。私にはそのお坊さんが発する『苦しみ』が想像できなかったんです。

そこで、そのお坊さんが執り行う『護摩※』という法要に参加させてもらったのですが、とんでもなく熱くて、火傷で鼻の頭やほっぺたの皮がめくれる程でした。法要を終えると、お坊さんは『一緒に苦しんでくれるお不動様だからこそ、毎回苦しい護摩焚きで皆さんの願いを聞き届けてくれるように一生懸命拝める。100年200年拝まれていく仏像というのは、そういうものじゃないでしょうか』とおっしゃっていました。

その言葉をいただいた時に、仏師たるものこうした人々の声を理解して彫らなければと感じました」

※密教の代表的儀式。護摩木という特別な薪で火を起こし、法要を行う。

仏像とは、何百年と人々に拝まれ続けていく存在であり、「その時代の写し鏡」となるもの。自分の死後も人々の心の拠りどころとなるような仏像を生み出すために、向吉さんは木と向き合い続けているのです。

「私達が参考にしている平安、鎌倉、室町時代の仏像は、表情やお姿全体が、その時代を表しているんですよね。私のような造るものたち、依頼をされた方々、その時代を生きてきた方々の面持ちによって、仏像のお姿や大きさも変わります。200年後に仏様を拝む人たちが『令和ってこういう時代だったのかな』と想像ができるようなものであって欲しいと願いながら、私達は仏像を造っています」

(文・飯嶋 藍子 写真・山元裕人)

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