まつもとゆきひろさんが仕事の合間にこっそり作ったプログラミング言語「Ruby」。なぜ世界標準に?

2022年4月8日

町づくりにも貢献する世界的プログラマー

世界最大手の民泊仲介サイト「エアビーアンドビー」、国内最大級の料理レシピサイト「クックパッド」、グルメのクチコミサイト「食べログ」……。誰もが名を知るようなウェブサイトをつくる際に使われているのが、プログラミング言語「Ruby」です。

今やインターネットのインフラの一つともいえる「Ruby」を開発したのは、日本を代表するプログラマー、まつもとゆきひろさん。都会が苦手(特に東京)なまつもとさんは、1997年から島根県の松江市で暮らしています。その松江市では2006年から「Ruby」で地方創生を行う「Ruby City MATSUE」プロジェクトがスタートし、開始から15年で約40のIT企業が松江市にオフィスを開設しました。

世界的なプログラミング言語を生み出し、町づくりにも貢献するという稀有な存在のまつもとさんですが、決して「Rubyで世界を狙おう!」とか「地方を活性化してみせる!」と熱い想いをたぎらせてきたわけではありません。

「プログラミングが大好きで、自由に楽しく続けていたい」と願い、ひたすらその道を突き進んでいたら、「こんなんなっちゃいました」と笑うまつもとさんのこれまでを振り返ります。

コンピューターが「かわいい」

1965年に大阪で生まれたまつもとさんは4歳の時、家族で鳥取の米子市に引っ越しました。子ども時代の記憶は、家の前にあった書店に入り浸っていたこと。

「子どものころはそんなにお小遣いがないので、ずっと本屋さんで本を読んでいました。本屋の事務所で、陳列する前の本を読ませてもらったこともあります。小学校の同級生は、本屋さんの前を通ると必ずぼくがいるので、本屋さんの子どもだと思っていたみたいですね(笑)」

コンピューターとの出会いは、小学校6年生の時。ガジェット好きの父親が買ってきたマイコン(マイクロコンピューター)をいじって遊ぶようになりました。プログラミングに目覚めたのは、中学3年生。父親に買ってもらったポケコン(ポケットコンピューター)を動かすために、「BASIC」というプログラミング言語を独学するようになったそう。プログラミング言語を簡潔に言い換えると、コンピューターを思い通りに動かすための技術。まつもとさんは、そこに魅了されました。

「普通のおもちゃは、決まった通りにしか動きませんよね。でも、コンピューターはぼくの指示に従って動く。それが動物に芸を仕込む感覚で、『かわいいな』と愛着が湧きました」

高校生の時、自宅前の書店で見つけたプログラミングの本。この本が、今のまつもとさんを生んだと言っても過言ではありません。その本には、「BASIC」以外の言語が紹介されていました。たとえば、「Pascal」というプログラミング言語は、スイス人のニクラウス・ヴィルトが開発したと記されていました。この本を読み進めるうちに、まつもとさんの胸が熱くなったのです。

「それなら、ぼくがプログラミング言語を作ってもいいじゃない!?」

都会に住まないで面白い仕事をする方法

すっかりプログラミングの虜になっていたまつもとさんは、「東京以外でコンピューターサイエンスを学べるところ」というのと、「つくば万博が観たい」という2つの理由で筑波大学に進学。その後1990年、日本タイムシェアというソフトウェア開発会社に入社します。

「学生時代に渋谷や新宿に行ってものすごい数の人を見た時、すごくストレスを感じたんです。それでやっぱり都会はダメだと思ったので、都会に住まないで面白い仕事をする方法がないかと考えました。この会社は浜松に開発拠点があって、非常に興味深いアプローチで社内システムを開発するということだったので、はたらいてみようと思いました」

Rubyの誕生日

同期入社200人のうち、コンピューターサイエンスを学んでいたのはまつもとさんを含め6名。そのため、希望通り社内システムを開発する部署に配属されました。ところが間もなくバブルが崩壊し、直接利益を生まないその部署はほぼ解体され、残ったのはまつもとさんとほか2名。与えられた業務は「社内ツールのメンテナンス」でした。

暇を持て余したまつもとさんは、オリジナルのプログラミング言語を作り始めました。もともとは、先輩が出版予定だった書籍用のものでした。

「同じ部署だった先輩が『言語を作りながら学ぶオブジェクト指向(プログラミング)』という書籍を出版することになったんです。それで、ぼくがひな型のプログラム言語を作って、それに対して先輩が解説を書くという形で本にできたらいいねという話になり、1992年の冬ごろから作業を始めました」

この時、プログラミング言語に名前をつけようという話になり、「プログラミング言語にPerl(パール)があるから宝石かな」という先輩の提案で宝石の名前をつけることに。いくつか候補を考えたなかで、宝石としてキレイ、短くておぼえやすいという理由でRubyになりました。先輩とチャットでネーミングのやり取りをしていたのが1993年2月24日だったので、この日がRubyの誕生日として認定されています。

当時のまつもとさん

業務時間にRubyを開発

先輩の書籍企画は途中でボツになってしまったのですが、すでに開発を始めていたまつもとさんは、作業を進めることにしました。その間に会社の経営が傾き始めたので、転職を決めます。会社を去る時、業務時間中にRubyを作っていたことを上司に打ち明け、どうすればいいのか判断を仰ぐと、「見なかったことにするから、持っていきなさい」と目をつぶってくれたそうです。

転職に際しても東京を避け、1994年、名古屋にオフィスがあるトヨタケーラムに入社。この会社は主にトヨタで使用するCAD*を開発していたのですが、まつもとさんが配属されたのは造船会社7社の共同研究プロジェクトでした。自宅からオフィスまで電車通勤していたまつもとさんは、片道20分、往復40分の電車内でその日の仕事を一通り終わらせ、オフィスではもっぱらRubyの開発に勤しんでいました。

*Computer Aided Designの略。設計や製図を行うためのソフトウェア

「同僚にはRubyの話をしていたし、上司も気付いていたと思いますが、何も言われませんでした。生産性ってなかなか数字にできないんですけど、できますと約束した仕事はやっていたので、会社として特に問題がなかったのかもしれません。どちらにせよ、もう時効でしょう(笑)」

さまざまなプログラミング言語を参考にしながら、「楽にできること」をテーマに開発を進め、1994年12月、アルファ版(テスト版)をリリース。寄せられた意見やアイデアを反映し、1年後、正式にローンチしました。

当時よく見ていた「ネットニューズ」というサービスに、「こんな言語を作ってみたので、使ってみてください」と投稿したのが、その年のクリスマス前。その2週間後には、Rubyに興味を持った約200人のメーリングリストができていました。当時は個人が開発したプログラミング言語は無数にあり、「そのうちの一つ」という感覚だったまつもとさんにとって、これは予想外の反響でした。

「プログラミング言語のコミュニティっていろいろあるんですけど、Rubyはまだ生まれたばかりだったので、成長の余地があることに魅力を感じてくれた気がします。この200人の人たちとはその後、アイデアを出し合ったり、議論をしたりするコミュニティになりました」

少数のなかで目立つ方が勝ちやすい

現在のRubyのWebサイト

三人寄れば文殊の知恵という格言がありますが、200人集まるとまつもとさんが想像もしないような提案が寄せられることも少なくありません。Rubyはたくさんの人の知恵と技術の結晶として、すくすくと成長していきました。

Rubyの生みの親として、日々の改善を図りながら名古屋ではたらき続けていたまつもとさん。所属していたプロジェクトのクライアントが東京の企業のため、チームのメンバーは皆、東京のオフィスに転勤していたのですが、一人だけ「東京はイヤ」と粘り、週に一度の東京出張を繰り返していました。

それもそろそろ潮時かなと思い始めていた1997年、まつもとさんの「知り合いの知り合い」が起業すると耳にします。事業内容がオープンソースのソフトウェアを使ったソフトウェア開発だと知って興味を持ち、転職を決意。松江にオフィスを開いたその会社、ネットワーク応用通信研究所の主任研究員に就き、自身も松江に引っ越しました。名古屋という都会から松江に移ることは、まつもとさんにとってむしろ魅力的だったと言います。

松江の市街地の様子

「東京をはじめ技術者がいっぱいいる都会では目立たないから、地方都市で突出した存在になれるほうがプラスにはたらくだろうと考えていました。私は、競争とか争いごとが好きじゃないんですよ。だから都会で切磋琢磨しようとは思わないし、プログラマーとして勝負するなら少数の中で目立つ方が勝ちやすいと思っていました」

世界的にブレイクするきっかけ

新しい会社でソフトウェアの開発を担当していたまつもとさんは、ある時、某大企業の研究所から「研究用ソフトウェア」の試作を請け負いました。その時の立場はマネージャーで、部下が実際の作業をすることになっていました。

時々、部下に「どう?」と聞くと「進んでいます」と答えるので任せていたら、締め切りの直前になって「すいません、できていません」と泣きつかれたそうです。その時初めて進捗を確認したら、一目で納期に間に合わないことが判明。マネージャーとしてクライアントに謝罪して締め切りを遅らせてもらった後、自分も必死にソフトウェアのコードを書きながら、まつもとさんは悟りました。

「正しいマネージャーの立場としては、部下が進んでいるというならどこまで進んでいるのかコードを見るところまでやらなくちゃいけなかったと思います。それを面倒くさがっている時点で、マネージャー失格なんですよね。ぼくにはマネージャーは向いていないと自覚しました」

これに懲りたまつもとさんは以後、マネージャーとして仕事を請け負わないと決め、会社からも求められなくなりました。

一方、Rubyはその使い勝手の良さからどんどん注目を集めるようになっていました。2000年には、書籍『The Pragmatic Programmer(邦題:達人プログラマー―システム開発の職人から名匠への道)』のアメリカ人の著者ふたりが、『プログラミングRuby―達人プログラマーガイド』という本を出版。そして、世界的にブレイクするきっかけになったのが、Rubyのコミュニティに所属するデンマーク人のプログラマーが2004年にリリースしたアプリケーションフレームワーク「Ruby on Rails」です。

まつもとさんと「Ruby on Rails」をリリースしたデイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソンさん

「Ruby on Rails」について簡単に説明します。まず、冒頭に記したエアビーアンドビー、クックパッド、食べログなどはウェブアプリケーションと言われます。要するに、ウェブ版のアプリです。

「Ruby on Rails」は、このウェブアプリケーションをRubyで簡単に作れるようにするツール。使い勝手が優れているので、ほかのプログラミング言語を使うよりも短い時間で簡単にウェブアプリケーションを作ることができるようになりました。時間が短縮されるということはコストが下がるということで、Rubyを採用する人が爆発的に増えたのです。

Rubyで産業振興!?

Rubyのユーザーが増えるにつれて、まつもとさんも脚光を浴びるようになりました。会社にとっては、グローバルで使用されるプログラミング言語の開発者が所属しているだけで価値があります。まつもとさんと顧問契約をしたいという企業が増えたこともあり、まつもとさんの仕事はRubyに関するものと企業の顧問業務にシフトしました。

このころ、松江市ではITで町おこしをできないかと調査を始めていました。島根県のIT産業の8割が松江市に集まっているからというシンプルな理由だったのですが、その調査の過程でまつもとさんの存在に気付いたようです。ネットワーク応用通信研究所に訪ねてきた市の職員から「産業振興にオープンソースとRubyを使いたい」と言われた時、まつもとさんの頭の中には大きなクエスチョンマークが浮かびました。

「正直、マジかと思いました(笑)。確かに松江にいますけど、Rubyとかオープンソースのプログラムを作ると言っても工場があるわけじゃないから、特定の地域と結びつくイメージがなかったんです。しかも、ぼくの出身地は鳥取で松江に特に郷土愛もないので、そんな期待をされても困るという思いもありましたね」

しかし、市の職員の話を聞いているうちに気持ちが変わりました。役所というのは、前例がないことをやりたがらないところ。それなのに、島根県どころか日本全国を見渡しても前例のないことをやりたいと言っているのです。

「その冒険心、チャレンジ精神を応援したい!」

こうして2006年、松江市で「Ruby City MATSUE」プロジェクトがスタートしました。

「Ruby City MATSUE」のオフィシャルサイト

最適化の列車から降りれば人間らしい生活ができる

同プロジェクトの最初の一手は、松江駅前に「松江オープンソースラボ」を開設すること。ここでRubyに関する勉強会やイベントを積極的に開催しました。2011年からは、Rubyに関する国内最大のイベント「RubyWorld Conference」を毎年開催し、2日間で延べ1,000人ほどのエンジニアやプログラマーが集まりました。さらに、島根大学や松江高専などでRubyのプログラミングやオープンソースを活用した講義を開くなど産学官連携が進んでいきます。

行政がRubyという一つのプログラミング言語を全力で推すユニークな取り組みは、開始から15年で約40のIT企業が松江市にオフィスを開設するという結果につながりました。調べたところ、当初600人ほどだったIT人材が、現在はおよそ倍に増えているそう。産業振興としては大きな成果で、「Ruby City MATSUE」プロジェクトは多くのメディアに取り上げられています。

「大企業がきたわけではないので何百人分の雇用になるわけではありませんが、40もの企業に松江市を選んで来ていただいて、本当にありがたいことだなと思います。Ruby教室にきた中学生で、後に高専を卒業して地元企業に就職した例もあります。今は島根県も一緒になって産業振興をしていこうという話になっているので、これからも盛り上げていきたいですね」

コロナ禍でリモートワークやワーケーション、地方への移住が話題になっていますが、松江市在住25年のまつもとさんは先駆者と言えるでしょう。徹底的に東京を避け、地方を選んできたまつもとさんは、地方に住む魅力をこう語ります。

「地方には時間も生活も余裕がありますよね。東京に人が集まるのは、仕事に最適化しているからだと思うんです。でも、仕事に最適化することによってプライベートにしわ寄せがきます。例えば長時間の通勤とか、起きている子どもの顔が見られないとか。地方に住んでそういう最適化の列車から降りてみると、もうちょっと人間らしい生活ができるんじゃないでしょうか。最適化して行動するのはコンピュータだけでいいでしょう」

松本さんが考える「成功の理由」

Rubyが生まれて、来年で30年。まつもとさんは今もRubyのコミュニティのリーダーとして、改善や機能追加、これからの方向性を決める役割を担っています。インターネットの進化とともにウェブアプリケーションも変化しているため、毎日10個、20個の変更点があるそう。

Rubyの開発に関しては、実際に手を動かすのはほかのプログラマーに任せているのですが、Rubyの軽量版「mruby」を独自に開発して、こちらの管理、運営はまつもとさんが手掛けています。「mruby」を作った理由を尋ねると、「Rubyのプロダクトオーナーみたいな感じになって、自分で何もしないのはあまりに寂しいから。プログラミングが大好きなのでプログラマーとして引退する気はありません」と言いました。

Rubyもmrubyも誰でも無料で使えるツールで、まつもとさんの作業に報酬は発生しません。素人発想で、もし有料化したら億万長者になっていたのでは……と想像してしまうのですが、まつもとさんは笑顔で首を横に振りました。

「何十年か前、プログラミング言語を商品にしている企業はたくさんあったんですけど、全部なくなりましたよ。1社だけ残っていて、マイクロソフトっていう会社なんですけど(笑)、もうプログラミング言語を売っていません。プログラミング言語は商売にならないんです」

それに、と言葉を続けました。

「私はもう20年ほどRubyだけに携わっていて、会社からの給料、顧問料、講演料などで生活が十分成り立っています。プログラミングを自由に楽しく続けていきたくて、その場その場で判断していったら想像以上に成功して今になったという感じなんですよ。無欲の勝利ですね!」

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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