元祖YouTuber・MEGWINは燃え尽きて、なぜそれでも世界一を目指すのか?

2021年3月12日

ここ数年で、一気に存在感を増したYouTuber。その先駆けであり、元祖ともいえる存在が、MEGWIN(メグウィン)さんです。

アメリカ発のYouTubeが日本語版のサービスを始めたのは2007年6月ですが、メグウィンさんはなんと、YouTube上陸前の2005年に「MEGWIN TV」を立ち上げ、毎日動画を配信。2010年にYouTubeと契約して配信を始めてからは、瞬く間にトップユーチューバーに上り詰めました。

「2005年に配信を始めたころには、同じようなことをしている人はいませんでした。かなり孤独でしたね」と振り返るメグウィンさん。

なぜ、誰も注目していなかった動画の世界に賭けようと思ったのか。YouTuberになることで、どんな変化が起きたのか。YouTuberが脚光を浴びるようになったいま、何を思うのか。メグウィンさんに尋ねました。

芸人を目指したきっかけは「馬」

1977年、神奈川県横須賀市で生まれたメグウィンさん。小学生のころにファミコンを買ってもらってからゲームにはまり、中学、高校時代もゲームが趣味でした。

高校生のとき、特に好きだったのは競馬ゲーム。競走馬を仕入れてトレーニングしレースに勝つという内容で、これと同じことが現実の競馬界でも行われているとを知り、競馬に興味を持つようになりました。

高校卒業後は、日本工学院専門学校に入学。高度な医療機器を扱う専門家である国家資格、臨床工学技士の資格取得を目指す学科で3年間学びましたが、モチベーションはゼロだったそう。

「親から『進学しないなら家から出なさい』と言われて入学したのですが、勉強がハードで、なんもわかんなくて。成績はずっと最下位でしたね(笑)」

在学中も、勉強そっちのけで、競馬への想いが募るばかり。その調子で国家試験に受かるはずもなく、専門学校卒業後、競走馬の調教師を目指して北海道へ渡りました。

しかし、牧場で馬の世話をしているうちに、「競馬の世界で一番偉いのは馬主だ。自分も馬主になりたい」と思い立ち、牧場を3カ月で辞めて、実家に帰ります。

メグウィンさんはこの時から、「芸人としてブレイクして、馬主になろう」という野望を抱くようになりました。

「志村けんとかさぶちゃん(北島 三郎さん)が馬主だって聞いて、なるほど芸能界かって思ったんです。でも、歌は歌えないし、お笑いならどうかなって」

メグウィンさんは、ここで考えました。芸人になるには、どうしたらいいんだろう? 

実は、もともとお笑いには興味がなくて、「ダウンタウンとウッチャンナンチャンぐらいしか知らなかった」。

その程度の知識しかなかったから、何はともあれ、まずは東京に出ようと考えました。そのためには、資金を貯めなくてはなりません。

それと同時期に両親から「臨床工学技士の資格を取らないなら家を出なさい」と言われたこともあり、メグウィンさんは短期間、集中して勉強。みごと試験に合格して、病院に就職しました。

そこで8カ月ほどはたらき、ある程度のお金が貯まると、辞表を出してすぐに東京へ。2000年、夏のことでした。

「俺より面白い奴めっちゃいるじゃん」

今なら、「芸人 なりたい」と検索するだけでさまざまな情報が出てきますが、当時はホームページを持っている芸能事務所自体がまれ。

さらに、お笑いについて詳しくないメグウィンさんは、よくわからないまま、検索して唯一出てきたお笑いのインディーズ団体を訪ねました。

そこで先輩芸人から情報を得て、舞台に立つように。この頃は、現在テレビで活躍する芸人のスギちゃんやじゅんいちダビッドソンと同じ舞台に立っていました。

あるとき、先輩から授けられたのが「メグウィン」という芸名。先輩と一緒に読んでいた雑誌のグラビアにタレントのMEGUMIさんが載っており、たまたまその日に履いていたエドウィンのジーンズを組み合わせて、「MEGUMIとエドウィンでメグウィン」と名付けられたそうです。

芸人になって3、4年もすると単独ライブで300人弱のお客さんを集めるようになりました。しかし、メグウィンさんは冷静に自分を見ていました。

「お客さんを300人、500人集める芸人はたくさんいて、その人たちが売れているのかって言ったら売れていないんです。そのレベルじゃぜんぜんダメだなと。

お笑い界のピラミッドの全貌を知ったとき、自分がこの世界で稼いで馬主になるのは無理だろうって思いましたね。単純に、俺より面白い奴めっちゃいるじゃんって思っていましたし」

このままじゃ、馬主になれない。どうしようかと考えた時、頭に浮かんだのが、自分の単独ライブの時の光景でした。

ひとりでネタを披露するので、ネタとネタの間に舞台裏で着替える時間が必要です。そこで、ある時から、メグウィンさんは幕間に短い動画を流しました。たとえば、自分が公園にいる小さい子どもたちの輪に乱入して、一緒に遊ぶという動画など。

どういうわけか、ライブのネタよりその動画のほうが大きな笑いを取れることに気付いたメグウィンさんは、ある日、宣言します。

「芸人を辞めて、俺はこれからネットで動画を出していく」

これが、芸人仲間から総スカンを食らいました。芸人にとって、目標はテレビ出演。当時はインターネット配信をしている芸人など皆無だったので、理解を超えていたのでしょう。「(芸人としての目標から)逃げるのか」と非難され、全員、離れていきました。

友人から「どうやって食っていくんだ」と聞かれても、「俺もわかんないよ」と答えるしかありません。両親からは「バカか、もう帰ってくるな」と勘当されました。それでも、決意は揺るぎませんでした。

「暇」という強みを生かして

2005年2月、「MEGWIN TV」設立。最初のころ、動画の編集を手伝ってくれていた人が途中で離脱してからは、自分で編集するしかなくなりました。その技術を学ぶために、ビデオ制作会社でアルバイトをスタート。生活費を稼ぎながら、動画の編集も学べて一石二鳥という考えでした。

友人、知人に頼んで撮影してもらったり、動画に登場してもらうこともありましたが、基本的には一人で動画のネタを考え、ひとりで撮影し、ひとりで編集をしていました。それは、孤独な時間でしたが、やめようと思ったことはありませんでした。

「あのころは、とにかく暇というのが、一番の強みでしたね。

芸人時代よりも、生活と時間に余裕ができたんですよ。会社員でもない、趣味があるわけでもない。アルバイトはしていましたが、それでも時間はあるから、動画を作るという感覚でした」

そのころに撮っていたのは、映画『ファインディング・ニモ』のパロディで、メグウィンさん自身がクマノミ型ヒーローを演じる「ファイティング・メモ」や、「仮面ライダー関根剣(メグウィンさんの本名)」といった動画です。

当時、こういった動画をいくら作っても1円にもなりませんでしたが、毎日飽きもせず動画をアップしているうちに、だんだん時代が追い付いてきます。

右肩上がりで増え始めた収入

YouTubeが日本に上陸した2007年、サイバーエージェント、ニフティ、フジテレビなどの名だたる企業がこぞって動画投稿プラットフォームをオープンしました。

メグウィンさんに、そのうちのひとつ、MTVが運営する携帯向けサイト「MTV FLUX」から、声がかかりました。1日1本、毎月30本の動画を投稿して、月々15万円というオファーです。

「2年ぐらい0円で続けてきた動画で、いきなり15万も貰えるなんてラッキー!」

この契約を両親に話すと、「仕事になったならいいだろう」と和解することもできました。

徐々に動画投稿プラットフォームの覇権争いは激化し、2年目に「MTV FLUX」がサービスを停止。すると、すぐに別の企業からアプローチがあり、今度は1日1本、毎月30本の動画投稿で月々30万円にギャラが倍増しました。

動画のPVや視聴者の反応から、自分が作る動画のクオリティに自信を深めたメグウィンさんは、配信とは直接関係のない動画のコンテストにも応募。こちらも次々と受賞し、受け取った賞金総額はおよそ200万円にも達したそうです。

当時はまだアルバイトも続けていたので、収入は右肩上がりで増えていきました。

YouTubeが、動画の収益化プログラム「YouTubeパートナープログラム」を日本で始めたのは2009年。投稿者がアップロードした動画に広告を表示することで、動画の再生回数に応じて投稿者も広告収入を得ることができるようになりました。

このころ、メグウィンさんも参入を決意し、動画の投稿先をYouTubeに移しました。

燃え尽き症候群

YouTuberになったと言っても、5年前から日常は変わりません。ひたすら体を張った笑える動画を撮り、アップする日々。

熟練の動画はコンスタントに数十万回の再生回数を記録し、なかには100万回を超えるものもありました。ただ、その頃はYouTubeに広告を出す企業自体が少なかったので、しばらくの間は収入も低く、アルバイトを続けていました。

「YouTuberで食っていこう」と腹をくくったのは、2011年6月に会社として「MEGWIN TV」を設立した時です。ちなみに、この会社には体重計で有名なタニタが出資しました。

「ダイエット企画で体重計が欲しくてタニタさんに打診したら、社長が呼んでるって言われて。これは怒られるのかなと思って行ったら、起業するなら一緒にやりましょうと言われたんですよ。

タニタさんはニコニコ動画の企業チャンネル1号で、もともと動画配信に興味があったみたいですね」

会社を作ったといっても急に広告収入が伸びるわけではありません。売り上げに対する支出はその2倍以上。どうにか黒字にするために、「気合いを入れてビジネスしなきゃ」と思っていたそうです。

その危機感が、「MEGWIN TV」をマネタイズするアイデアにつながったのでしょう。まず、安定した制作体制を整えるために、社員を採用。

メグウィンさんだけでなく、複数の社員メンバーがレギュラーで登場するお笑い番組のような形で動画を作り始めました。すると、それぞれにファンがつくようになり、再生回数、登録者数はうなぎのぼりで伸びました。

そうして人気が出てきた社員YouTuberたちと一緒に、企業とのコラボレーションも開始。

さらに、他社から動画制作を請け負う仕事もスタート。YouTuberとしての実績を売りにして営業をかけると、会社のPRやマーケティングに動画を使用したい企業からの依頼も次第に増えていきました。

この両輪体制が徐々に軌道に乗り始め、2017年にはチャンネル登録者数が100万人を突破。このころには、「そろそろ、馬主になれるかな」と思うぐらいの収入になっていました。

ところが、実はその数年前から、メグウィンさんは燃え尽きかけていました。

「2005年からずっと同じことやってきたじゃないですか。さすがに飽きたんですよ。

YouTuberで食えるようになるというゴールがあったとすればそれは達成したし、YouTubeを始めたころすぐにナンバーワンと評価されるようになったので、もういいかって思うようになって。もっと面白いことやりたいなと。

人より早く動画の世界でやってきた分、燃え尽き症候群も早く来たんでしょうね」

「飽き」を自覚してから、メグウィンさん自身が登場する動画が少なくなっていました。といっても、さぼっていたわけではありません。経営者として、会社を成長させるために動画制作のクライアントビジネスに注力していたのです。スーツにネクタイを締めて、自ら営業を行っていました。

しかし、屋台骨であるはずのメグウィンさんが現場から離れたことで、それまで一丸となっていたチームにヒビが入ったのかもしれません。2018年末、メンバーが立て続けに離脱をきっかけに炎上。

登録者数や視聴回数も最盛期と比べるとも大きく減り、馬主への道も遠のきました。

変わらぬ夢

それから2年が過ぎ、現在。動画制作の事業を続けながら、以前のようにYouTubeに毎日動画をアップしているメグウィンさんは、「YouTubeでもう一度逆転して、世界一になりたい」と語ります。ただし、構想中の新事業の主役は自分ではありません。

「今、UFOキャッチャーをオンラインで遠隔操作できるシステムを作っています。無料でプレイできるようにして、それをYouTubeで配信するんです。

これなら、カメラマンもいらないし、編集もいりません。ヒントは渋谷のスクランブル交差点の定点カメラから得ました」

メグウィンさんが調べたところによると、渋谷のスクランブル交差点を映している定点カメラは、常時、500人ほどがアクセスしているそうです。

もちろん、一部の人が24時間張り付いているのではなく、大勢の人が訪れ、短時間で入れ替わっているというのがメグウィンさんの見立て。もし1分程度で500人が入れ替わるとしたら、60分で3万人、24時間で72000人が視聴しています。

この予想が正しければ、ただ交差点を映しているだけの動画で、並みのYouTuberより視聴者数が多いことになります。ここに目を付けたのです。

「次に来るのはライブ配信だと思っているんですが、自分が出ると出た分しか稼げない。それじゃあ限界があると思って、この仕組みを考えました。

僕は、自分がスターになりたいという気持ちはないんです。自分が表に出なくて、その分、好きなことをやれる時間があるならそっちのほうがいい」

21歳の時、北海道の牧場で「馬主になろう」と決意してから、22年。その間、動画配信を巡る時代の大きな流れのなかで、フリーターから駆け上がって一度は頂点に立ち、失望も味わいましたが、唯一、変わらなかったのが、夢でした。

「子どもの頃からゲームが好きというのが、根本にあるんです。だから、リアルで一番楽しそうな馬主というゲームをやりたい。馬主になって、世界で一番速い馬を作りたいんですよ」

YouTuberの先駆者として、新たな世界を切り拓いてきたメグウィンさん。

変わらぬ夢を語る目は、力強く未来を見据えていました。

(取材・文:川内イオ 写真:湯浅亨)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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