人気YouTuber「魚屋の森さん」の知られざる手腕。なぜ鮮魚店に1日2000件の注文が殺到するのか?

2021年5月6日

1年でチャンネル登録者数10万人超

昨年2月にYouTubeでの配信を始めてからわずか1年で、12.9万人のチャンネル登録者を記録した魚屋さんがいます。「魚屋の森さん」こと、森朝奈さん。

森さんは、このチャンネルでおいしい魚のさばき方や調理方法をメインに配信しています。それは、父親の嶢至さんが1980年に開いた「寿商店」の2代目として「魚食文化をもっと広めたい」という想いがあるから。

早稲田大学の国際教養学部を卒業し、楽天株式会社ではたらいた後、2011年、家業を継ぐために名古屋の実家に戻った森さん。そこにはどんな想いがあり、また、この10年、どんな苦労と試行錯誤があったのでしょうか。お話を伺いました。

父親が披露した、保育園での‟ブリ解体ショー”

幼少期のころの森朝奈さんと父親の嶢至さん

森さんにとって、「魚屋さん」としての父親の1番古い記憶は、保育園の時。「寿商店」は、地域の人たちが多く立ち寄る町の魚屋さんでした。保育園から帰宅すると魚屋に直行し、お手伝いをしたり、夕方の特売の時間になると、店頭で「いらっしゃいませ~!」と売り子になりました。

ある時、保育園の先生が嶢至さんに相談をもちかけます。「子どもたちが魚の切り身しか知らなくて、魚の絵が書けないんです」。話を聞いた嶢至さんは、保育園でブリの解体ショーをしました。一匹の魚がきれいにさばかれていく様子を初めて見た子どもたちは、「かっこいい!」と歓声を上げたそうです。この時、幼い朝奈さんはとてもうれしく、誇らしい気持ちになりました。

それから、子ども心に「お父さんの仕事を継ぐ」という意識が芽生えます。小学校を卒業するころにはその想いが強くなり、卒業文集にも将来の夢として「親の跡を継ぐ」と書きました。

森さんの小学校の卒業文集。将来の夢「親のあとつぎ」。

「両親から、跡を継いでほしいと言われたことは一度もないんです。でも、長女っていう自覚がすごくあったのと、私以外に継ぐ人がいないっていうのも理解していたので、夢というよりも子どもなりの責任感で書きました」

中学生、高校生の時には、イルカのトレーナーやフライトアテンダントを夢見たこともありました。ただ、それはあくまで憧れ。頭の中では常に「魚屋を継がなきゃいけない。そのために自分はなにをすればいいんだろう」と考えていました。

会社の穴を埋める人材に

早稲田大学の国際教養学部に進学したのも、魚屋の仕事に活かすためでした。

「高校時代に父から『いずれ海外で店をやってみたい』という言葉を聞いたり、事業拡大したいという熱をすごく感じたんですよ。それなら得意だった英語を磨こうと思って、国際情勢と英語を学べる学部を選びました」

在学中、ニュージーランドに1年留学。そこでは、反捕鯨団体の活動を目の当たりにします。寿商店では鯨肉を扱っていたこともあり「国によって考え方が違う」と肌身で感じました。それが日本の漁業の伝統や歴史を学ぶきっかけになったと言います。大学3年生になると、すぐに名古屋に戻るのではなく、父親の店でどんな人材が必要とされているかを考えて、就職活動を始めました。

「将来、寿商店ではたらくのであれば、居場所を自分で作らなきゃいけませんよね。そのためには、父の会社の穴を埋める人材になればいい。その穴が、ECでした。父が鮮魚のオンライン販売を始めたのですが、当時はまだ鮮魚をインターネットで買う文化が根付いておらず、軌道に乗らなくて苦労していると聞いていたのです」

その頃、日本最大のオンラインショッピングモールは楽天市場で、寿商店でも利用していました。そこで森さんは楽天でECコンサルタントになることを目指して楽天の採用面接を受け、見事に採用されました。

2009年、よし、ECコンサルタントを目指して頑張ろう! とモチベーション高く社会人になり、研修でも好成績を収めた森さん。その姿勢が評価されたのか、配属は社長室でした。

予想外の展開ながら、いずれは家業を継ぐという想いに変わりはありません。懸命に働きながら、独学でECのノウハウを学ぶ日々。そして父・嶢至さんが一時期体調を崩したタイミングで、実家に戻ることを決めました。

とはいえ、家業だからといって、はたらきたいと言えばすぐにはたらける、というものではありません。森さんは自分の熱意を伝えるため、寿商店に入社したらこんな仕事をしたい、こんな会社にしていきたいという手紙を書いて、嶢至さんに渡します。

入社は許されたものの、当時、特に手紙へのリアクションはありませんでした。実はその手紙が嶢至さんの財布に大切にしまわれていたのを森さんが知るのは、それから数年後のことです。

「社長の娘」というフィルターを外すために

寿商店が運営するくじらと魚料理の店「下の一色」本店

当時の寿商店は、創業時からの鮮魚の卸売りに加えて、魚料理を中心とした居酒屋を2店舗出していました。森さんは入社当初、飲食店のホールに立ち、配膳、会計、片付けなどアルバイトと同じような仕事をしながら、開店前や帰宅後など空き時間にECサイトの運営、メニューのデザインのリニューアルといったバックヤードの仕事も担いました。

お店では酔っ払った客が汚したトイレの掃除など、汚れ仕事も率先して引き受けたそうです。一息つく暇もない慌ただしい毎日でしたが、決して人手不足だったわけではありません。森さんが自ら望んで、そうしていたのです。

「社長の娘っていうフィルターがあるじゃないですか。みんな私に気を遣って、ほかの社員さんと同じように接してもらえないと自覚してたので。普通以上に頑張らなきゃいけないし、普通以上に認められなきゃいけないと思って、なんでもやりました。オフィスでずっとデザインの仕事をしていても、自分がなにをやっているか、わかってもらえませんから」

社長として接するようになった嶢至さんとの距離感にも、苦労しました。最初の頃は、ほかの従業員には魚のさばき方を丁寧に教えるのに、森さんには簡単な説明をして終わり。なんで?と苛立ったこともありましたが、後になって理由がわかりました。嶢至さんはもともと「男社会の汚れ仕事だし、女の子がやることじゃない」という考えで、長女が跡を継ぐことも手放しで喜んでいたわけではないと人づてに聞いたのです。

しかし、魚をさばけなければ一人前の魚屋にはなれません。そこで森さんは、嶢至さんが従業員にレクチャーしている時、ほかの仕事をしている振りをしながら、盗み聞き、盗み見して、メモを取りました。仕事が終わった後、スーパーで魚を買い、メモを見ながらさばく練習を繰り返す。わからないところは、YouTubeも参考にしたそうです。

そうして少しずつ腕を上げていったある日、嶢至さんの前で魚をさばく機会がありました。その時に「お、できるんだな」と認められます。それ以来、職場でも魚を触らせてもらえるようになったそうです。

徐々にアイデア力を発揮、看板メニューが誕生

市場で魚の目利きをする森さん

寿商店の仕事をどん欲に吸収した森さんは、次第に持ち前のアイデア力を発揮し、目に見える結果を出すようになります。

たとえば、今、お店で一番人気の「鯨の鉄板レアステーキ」は、森さんのアイデアでもっとも大きな変化が起きたメニューの一つ。嶢至さんが考案した商品で、森さんがホールに立ち始めた時は、それほど売れ行きはよくありませんでした。

その昔、鯨肉が給食で出されていた時期があったのですが、当時、その給食を食べていた世代の人たちには「不味い」「硬い」という印象を持つ人が少なくなかったのです。

そこで、森さんは考えました。鯨の鉄板レアステーキは珍しいし、本当においしい。20代、30代をターゲットにして見せ方を変えれば、間違いなく売れるはず。森さんは、新しいメニューの1ページを使って、鯨の鉄板レアステーキを大きく取り上げました。提供する時は、アツアツの鉄板に載せて、ジュージューいわせるように。

すると、一気に注文が増えて、今はお客さんの9割が頼む看板メニューになりました。

「寿商店を変えられるのは私しかいない」。

寿商店の出張サービス「まぐろ解体ショー」の様子

バックヤードでも、改善を進めました。オンライン受発注システムを導入し、「父だけができる仕事」だった原価の計算や仕入れの管理を効率化。

以前は「面接した時に感じのいい人かどうか」が基準だった採用も、既存の人材との相性、適材適所を考えるようにしていきました。入社前からの課題だったECも、魚一匹を丸ごと売るのではなく、届いたらすぐに食べられる鍋セットなどに加工して売ることで、利益が出るようになりました。

こうした変化を嫌い、離れていく従業員もいます。不平不満が漏れ伝わることもありました。森さんはそれでも、立ち止まりませんでした。

「私がどんどんお店を変えていくことに、納得できない方もたくさんいたと思います。なぜこれをやるのかという意図を必ず説明するようにしたんですけど、最初は本当にいろいろなことを言われました。でも、寿商店を変えられるのは私しかいないと思っていました」

嶢至さんの魚の目利き力と、その魚を活かした料理のおいしさというもともとの強みに加えて、森さんが主導する改革が功を奏し、寿商店は波に乗りました。入社した2011年の時点で2店舗だった居酒屋が、12店舗に増えたのです。2016年には、そのはたらきぶりを見ていた嶢至さんから、「お前はちゃんと仕事してるから」と常務取締役にも任命されました。

「お店が増えていく過程で、私は人や数字の管理、ブランディング、PRを含めた組織づくりに力を入れてきました。跡取りとしての本気度は父に伝わったと思うので、自分の代で店を閉めなくていいんだ、頑張らなきゃって父を奮起させるきっかけにはなったと思います」

1日に2000件の注文

寿商店が運営する「下の一色」の店内の様子

そして、2020年。ここからさらに事業を拡大していこうというタイミングで、新型コロナウイルスのパンデミックが起きます。数カ月にわたって休業や時短営業を強いられ、寿商店の飲食店も大きな打撃を受けました。

しかし、森さんが運営を担ってきたECがその打撃を最小限に抑える役割を果たしました。コロナ禍の「イエナカ」需要に合わせて、下処理した鮮魚ボックスを販売したところ、それが大ヒットしたのです。きっかけは、森さんの閃きでした。

「コロナの流行が始まってから、子どもがいる友だちはスーパーに行くのも怖いと言っていました。一方で、市場に行くと飲食店が閉まって行き場を失った質のいい魚が市場に溢れかえっていて、半額でいいから買ってと頼まれました。それを知った時、下処理して家で調理するだけの状態の魚って需要があるんじゃないかなと思ったんです」

森さんは、市場で魚が余り、漁師や市場の人が困っていることを伝えながら、簡単に調理できる鮮魚ボックスをインスタグラムでPRしました。すると、家で気軽においしい魚が食べられて、しかも人助けになるならと、続々と注文が届くとともに、取り組みの情報が拡散。

愛知県の全ローカルテレビ局がニュースとしてとり上げ、多い日には1日に2000件もの注文が入りました。その結果、緊急事態宣言中、12店舗を休業しなければいけない状況でも、従業員に給料を支払い続けることができたのです。

コロナ禍に得た自信

「魚屋の森さん」チャンネルでの最初の投稿。手際よくマグロを解体する森さん。

YouTubeも、コロナ禍にスタートしました。かつてない状況を前に立ちすくむのはなく、変化を受け入れながら、チャレンジしようと考えたのです。YouTubeでは、魚のさばき方、食べ方など「魚食文化」を発信しています。

「これまで、魚はさばくのが面倒だからあまり家で出さないと何度も言われてきました。だからこそ、家でも簡単にできるし、女性でも大きな魚をさばけるし、こういうふうに調理したらおいしいよって、伝えたいことがたくさんあるんです。YouTubeを使えば、それを大勢の方に伝えることができると思いました」

その成果は、冒頭に記した通り。一気にチャンネル登録者数が増え、YouTubeチャンネルだけで収益化できるほどに成長しました。

さらに、鮮魚ボックスの反響とYouTubeの相乗効果で、緊急事態宣言が明けてからは、居酒屋にも新規のお客さんが増えているといいます。どちらも、森さんが発案し、大きく成功したことから、この1年は、森さんにとって「大きな自信になった」と振り返ります。

しかし、ここでホッと一息ついている余裕はありません。国内外でコロナが落ち着き、世界経済が再び目覚めるタイミングを見据えて、森さんは既に動き始めています。目指すのは、嶢至さんの夢でもある海外進出。その手始めに、得意の英語を活かして日本の食文化の情報発信もスタートしました。

「翻訳をつけた動画を何本か出したところ、いくつか英語のコメントがついたり、輸出して欲しいという問い合わせもありました。情報発信は自分の得意分野で自信があるので、日本の食文化の発展に少しでも貢献したいですね」

リアルとネット上の境界を越えて、「魚屋の森さん」は泳ぎ続けています。いつか、寿商店を継ぐ日に備えて。

(取材・文:川内イオ 写真提供:寿商店)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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