倒産しかけた土田酒造が、なぜ世界的ブランドに?若き杜氏・星野元希の挑戦

2022年5月19日

経営危機を脱するためのヒント

「なにこれ!? めちゃくちゃうまい!」 

2015年4月、群馬県川場村にある土田酒造のオフィスで、酒造りの責任者である杜氏(とうじ)の星野元希さんは、驚きの声を上げました。

そのオフィスには、およそ100本の日本酒が並んでいました。星野さんが、当時売れていると評判だった銘柄を片っ端から買い集めたものです。

すべてを利き酒した星野さんは、新政酒造(秋田)のエクリュという日本酒だけが飛び抜けているように感じました。もしブラインドテイスティングをしたとしても、必ず当てられる自信があったというほど。

「個性がちゃんとあるのに、きれいで、圧倒的にうまい。この酒にはかなわない……」

その場に同席していた土田酒造6代目の土田祐士さんも、同じ酒に感嘆したそうです。

ふたりが電撃的に新政酒造の酒に出会う、ほんの数日前、土田酒造に厳しい現実が突き付けられていました。6代目の意向で経営コンサルタントを入れて財務などを分析した結果、「あと10年持つかどうか……」の危機的状況だと分かったのです。

100本の利き酒会は、土田酒造を立て直すヒントを得るために開催されたものでした。土田さんと星野さんは頷きあいました。

「新政さんのエクリュを目指そう! その酒で全国新酒鑑評会の金賞を取ろう!」

今、全国の酒蔵の中でもとりわけユニークかつ挑戦的な姿勢で注目を集めている土田酒造の酒造りは、この日を境に変化していったのです。

初めて日本酒を飲んだ日

1985年、東京の杉並区で生まれた星野さんが酒造りの道に進むと決めたのは、高校2年生の時。友人から、味噌や醤油のような食品だけじゃなく、お酒を造るのにも発酵が関わっていると聞き、興味を持ったといいます。

「もともと、人と違うことがやりたいタイプなんですけど、その中でも伝統とか職人ってかっこいいなと思っていました。実家が中華料理屋で、両親がプロの料理人としてはたらくのを見てきたからだと思います。それに、二人はお酒が大好きで、いつもうまそうに飲むんですよ。たまに外で飲むと酔っ払って超ハッピーになって帰ってくる。だから、酒はうまくてハッピーになるものというイメージがあって、お酒を造る仕事って楽しそうだなってピンときたんです」

生来の勉強嫌いがたたって東京農業大学の受験に失敗したものの、ワイン造りを通して酒造りを勉強できる東京バイオテクノロジー専門学校を見つけて入学。その学校では、2年生から醸造発酵コースに進みました。3年生の時、アルバイト先の飲み会で初めて日本酒を飲んだ星野さんは、その味に心を奪われます。

「銘柄は覚えてないんですけど、多分宮城県のお酒でした。フルーツみたいな香りがして、甘みがあって、なにこれ、米ってこんなになるの?って、ビックリしたんです。それで、日本酒はすごい、この道に進むしかないと思いました」

話を聞いてくれた唯一の酒蔵

2005年、就職活動を始める時は焼酎ブームで、日本酒の売り上げは下り坂。経験のない若者を採用しようという酒蔵にはなかなか巡り合えませんでした。ふと思いつきで、父親の実家があり、月に一度のペースで通っていた群馬県に絞って仕事を探そうと考えた星野さんは、群馬県酒造組合のリストに載っている酒蔵に、上から順に電話をかけます。

「人、足りているんで」「いらない、いらない」「今は間に合ってます」……。まったく手ごたえがないまま電話をかけ続けたところ、一件だけ、「面白そうだから、話を聞かせてよ。一度、来てみない?」と声をかけてくれた蔵がありました。それが土田酒造で、電話の先にいたのはゲーム会社を辞めて家業に就いたばかりの土田さんでした。

土田酒造がある川場村は、星野さんの祖父母の自宅がある昭和村と近く、親近感の湧く土地でした。喜び勇んで足を運ぶとカジュアルな面接が行われ、冬休みに2週間のインターンをさせてもらうことに。星野さんは、そこで酒造りに心惹かれました。

「酒が発酵しているところって、ずっと見ていられるんです。シュワシュワって音が鳴ったり、モコモコ泡が出たりして、ぜんぜん飽きない。面白いなと思って、隙があれば見ていました」

この後、学校の紹介で千葉の酒蔵からも採用の連絡をもらいましたが、祖父母の家が近いのが決め手になり、2006年、土田酒造に就職しました。

出荷作業の隙を見て酒造りの現場へ

1907年(明治40年)創業の土田酒造は、戦前に行われていたとある日本酒の品評会で、連続入賞した蔵だけに与えられる「名誉賞」を、関東で唯一受賞している名門。入社したといってもすぐに酒造りに参加できるわけではなく、1、2年目はお酒を瓶詰めし、ラベルを貼って酒販店や卸問屋に配達する出荷作業がメインでした。

その中でも、星野さんはできる限り酒造りの現場に顔を出し、「何かやることありませんか?仕事ください」と声をかけ、言われたことはなんでもやりました。そうして隙を見つけては、杜氏や杜氏の下で酒造りを担う蔵人(くらびと)に質問をして、どん欲に知識を吸収していきます。

「学校は卒業したんだけど、現場に入ったら何を言ってるのかも、なぜその作業をしているのかも分からないんですよ。だからとにかく作業に入るしかないと思って。まずは親方に気に入って使ってもらえるようにならないと、教えてもらえねえぞって危機感がありました」

酒造りについて全体が見えるようになってきたのは3、4年目。2007年から杜氏に就いていた土田さんに、事あるごとに「酒造りがしたい」と訴えていたこともあり、このころには蔵人として土田さんのもとではたらくようになっていました。

本格的に酒造りに携わるようになると、それまで以上に仕事が楽しくなり、熱中。土田酒造は創業以来のブランド「誉国光(ほまれこっこう)」が看板商品で、毎年、このお酒を大量に仕込んでいたのですが、作業に慣れて退屈することもありませんでした。発酵や醸造は微生物の反応なので毎回のように違いがあり、発見があったのです。

群馬県内で一番若い杜氏に

その熱量が、土田さんに伝わっていたのでしょう。2012年の夏、土田酒造のスタッフが一堂に会する暑気払いの宴会が行われた日、締めの挨拶の時に星野さんが杜氏に昇進すると発表されました。当時27歳、群馬県内で一番若い杜氏の誕生です。

経営コンサルタントから「あと10年持つかどうか」と指摘されたのは、それから3年後のこと。冒頭に記したように、6代目の社長に就いていた土田さんと若き杜氏の星野さんは再興を期して、新政酒造の酒を新たな目標に据えました。

星野さんはまず、さいたま新都心にある国税局の鑑定官室を訪ねました。そこには、酒を評価する専門家がいます。新政酒造のエクリュを持参した星野さんは、「こういう酒を造りたいんです。造り方を教えてくだい」と頼み込んだのですが、結論からすると「よく分からない」ということでした。

どうしようかと焦りを募らせていた2015年6月のある日、土田酒造にFAXが届きます。それは栃木県酒造組合が主催する勉強会のお知らせで、「スペシャルゲスト 新政酒造・佐藤祐輔社長、古関弘杜氏 群馬県の方も参加可能」と書かれていました。

「きたきたきたきたー! これだ!」

前のめりで参加した勉強会で、星野さんは衝撃を受けます。

「今まで自分が教わってきた酒造りと、まるで違ったんです。何これ、こんなことやっていいの?!と、カルチャーショックを受けました」

異端の新政酒造

その時、新政酒造の佐藤社長は自社の酒造りについて、こう説明していたそうです。秋田県内の米だけを使用する。昭和5年に新政酒造のもろみから分離された6号酵母しか使わない。表示義務のないものも含めて、添加物は一切使用しない。この方針は、当時の日本酒業界では異端中の異端でした。

「現代の酒造りには、ほとんどすべての蔵が採用している 『速醸酒母(そくじょうしゅぼ)』という、安全にお酒を造るために乳酸などの添加物を入れる技術があります。また、たとえば酒になった時に酸が出過ぎていたら、除酸するためにアルカリ成分のものを入れて中和する。味を調えるために、醸造アルコールを添加することもできます。しかも当時は香りのある酒が売れていたし、評価されていたんですけど、6号酵母って香りが低い。さらに秋田の米しか使わないと言い切る。そのころ、ここまで常識外れの酒造りをしている酒蔵は新政さんだけでした」

「こんなやり方あり!?」という疑問もわきましたが、何よりも自分が惚れ込んだエクリュが証拠。勉強会当日、佐藤社長と名刺交換をした星野さんは群馬に戻るとすぐに新政酒造に電話をして、「見学させてください」とお願いしました。佐藤社長と古関杜氏は快く受け入れてくれて、星野さんは思う存分に質問する機会を得ます。それでも飽き足らず、その後、幾度となく質問や相談をしては古関杜氏から何度もアドバイスをもらい、未知の酒造りの神髄に少しずつ近づいていきました。

社長とふたりで丸坊主

新政酒造で日本酒造りの新たな可能性に触れた星野さんは、2015年の秋、モチベーション高く酒造りに挑みます。その味に自信を持った土田社長と星野さんは、顧客に「全国新酒鑑評会で金賞を取れなかったら坊主になる」と宣言。結果は入賞で坊主になりましたが、星野さんはワクワクが止まりませんでした。

「全国新酒鑑評会って研究し尽くされていて、どういう酒を造れば金賞を取りやすいかどの蔵も知っているから、みんなが同じような酒を造るんです。確かに金賞は名誉だけど、それってちょっとつまらなくない?と思っていました。だからこの時、金賞は取れなかったんだけど、気持ち良かったんですよね。群馬県の酒蔵の研究会に行ったら、『これ純米でしょ、なんでこんなにきれいな味がするの?』ってガンガンに質問されて。そんなこと、それまで一度もなかったから」

2016年秋、今度こそ金賞を取ろうと、星野さんは新政酒造の酒蔵で1週間、弟子入り。星野さんが「師匠」と呼ぶ古関杜氏の薫陶を受けた結果、前年に増して酒の個性に磨きをかけました。その結果、見事に金賞を受賞します。土田社長と星野さんは、確信しました。

自分たちの方向性は間違っていない。この道を突き進もう! 

全量を「純米山廃仕込み」に

2017年の夏、土田酒造の社員が集まってミーティングが行われました。

それまでは「普通酒」と呼ばれる酒を造り続けていました。これは醸造アルコールや酵素剤を使用した4段仕込みなどの技術を採用したもので、人工の乳酸を使用した「速醸」でもありました。しかし、この時にすべての酒を表示義務のない添加物も含めて添加物なしの純米の「山廃仕込み」にすることに決まりました。

ここで、少しだけ「山廃仕込み」について説明します。

人口の乳酸を使用せず、酒蔵に生息する自然の乳酸菌を取り込む、より原始的な製法を生酛造り(きもとづくり)と言います。さらに生酛造りの課程のひとつ、蒸米と麹と水を混ぜ合わせたものをすり潰す「山卸(やまおろし)」という作業を廃止したのが、山廃仕込み。山卸は安全に発酵を進めるための技術ですが、研究が進み山卸を省略しても安全に造れることが分かってきたことで山廃仕込みが誕生したようです。

「誤解してほしくないのは、添加物は法律で認められているものだし、悪いものを入れているわけじゃないんです。僕も無添加でまずい酒をつくるなら、やらない方がいいと思います。でも、無添加でもうまい酒ができた。新政さんに持っていった時、これめちゃくちゃうまいじゃんってすごくいい評価をしてくれたんです。それなら無添加でいこうよっていう話になりました」

これは土田酒造にとって、とても大きな転機でした。そのころ、売り上げの4割を占めていたのが普通酒だったからです。土田社長の決断について、星野さんは「自分が経営者だったらできません。明らかにギャンブルでしょう」と苦笑します。しかし、この決定は星野さんにとってはうれしいニュースでした。

「山廃や生酛は、速醸よりも圧倒的に楽しいんです。僕はバイクも車も好きで、ずっとマニュアルに乗っていたんですけど、山廃はマニュアルで速醸はオートマという感じですね。マニュアルって自分で操作している感じがあって楽しいじゃないですか。山廃や生酛の場合、特に乳酸菌の扱いが難しくて、緊張感も半端じゃないんですけど、それだけにめちゃくちゃテンションが上がるんですよね」

群馬県のテロワールを表現

翌年の夏、大胆に舵を切った土田酒造に、海外から吉報が届きました。2018年7月、フランスの著名なソムリエや飲食関係者が審査員を務め、パリで開催される日本酒コンクール「Kura Master クラマスター)」の純米大吟醸&純米吟醸酒部門で「土田 菩提酛×山廃酛」がプラチナ賞を受賞したのです。これは、室町時代の製法[菩提酛」に「山廃酛」を掛け合わせて造ったものでした。

初めての海外からの評価に背中を押されるように、その後も土田社長と星野さんは新しい酒造りに挑戦し続けました。日本酒に専用の酒米を使用する蔵が多いのですが、2019年秋に仕込んだ「シン・ツチダ」は、群馬県産の飯米(はんまい/食用の米)のみを使い、生酛で仕込みました。群馬県のテロワール(土地の個性)を表現する酒は評判を呼び、リリースから間もなくして完売したそうです。

実はこの頃から、土田酒造では全量を生酛造りとしています。全量山廃仕込みとなって2年。それまで問題なかった仕込みで、上手くいかないことが多くなりました。改めて勉強し直したところ、山卸の大切さに気が付きました。そこで改めて山卸を始め、全量生酛造りとすることにしたのです。

2020年秋に仕込んだのは、日本でよくタイ米と表現される、東南アジアなどで栽培される中長粒米のインディカ米を使った日本酒。「研究醸造 Data14」と名付けられたこの酒は、東南アジアでの酒造りの可能性を拓くものです。

そして2021年秋には、木桶を導入。この桶は、川場村の杉を使ったもので、この桶で仕込んだ酒は米、水に加えて道具までも群馬県産になります。日本酒のタンクはホーロー製がほとんどで、初めて木桶を使用した星野さんは、「味の深みが一層増えた感じで、いつもとぜんぜん違う」と語ります。

国内外の著名アーティストが部屋をデザインしたことで話題になった前橋市のリノベーションホテル、白井屋ホテルとコラボし、酒蔵見学ツアー付き食事会も催しました。

若手から言われた「そういうの、ダサいっすよ」

保守的と言われる日本酒業界で、ここまでアクティブな酒蔵はめったにありません。土田酒造の野心的な取り組みは大いに目立ち、数々のメディアに報じられました。それが、従来の日本酒好きにとどまらないファンの獲得につながります。今では、土田社長が2009年に立ち上げた新ブランド「土田」の出荷数量は全出荷の48%を占めます。

この冒険的な酒造りを支えているのは、IT。土田酒造ではパートスタッフを含めて全員がビジネスチャットツール、Slackを使用しています。星野さんは、そこに酒造りの課程だけでなく、現場の状況、実験の内容、思い付きのアイデアなどあらゆる情報を投稿し、共有しています。

「僕が蔵人をしている時、背景を知らされないまま、突然指示だけ飛んできたり、方針を変更されたりすることがあって、それはイヤだなと思っていたんです。だから今は、Slackでオープンにチャットをしながら進めています」

星野さんは仕事の合間に、Googleスプレッドシートを使ってシフト表や帳簿を作ってスタッフに共有し、オンラインタイムカードのシステムも自作。麹の温度は30分おきにスマホに届き、自動でグラフが表示されるようになっています。

もともとITに疎かった星野さんをここまで変えたのは、若いスタッフの言葉でした。あるスタッフは、はたらきづめで毎日遅くまで残業していた星野さんにこう言い放ちました。

「そういうの、ダサいっすよ」

師匠からの謎のアドバイス

星野さんは、若いスタッフの言動から「残業ってカッコ悪いんだ」と知り、心底驚きました。その時、杜氏として誰よりも尊敬する新政酒造の古関さんがあらゆる情報を蔵のスタッフに公開していたことを思い出します。星野さんは、「お前が休めば休むほど酒は旨くなる」という謎のアドバイスをもらっていました。その時はなにを言っているのかよくわからず不思議に思っていたのですが、若いスタッフとの会話から思い当たりました。

「古関さんは以前、従業員に情報のシャワーを浴びせまくると言っていたんですけど、なるほどと思いました。できる限り情報を共有して、俺と同じ考えの人間がいっぱい現場にいれば、杜氏でも休めるんですよ。何か起きた時にも、俺と同じ考えだから信頼して任せられる。若い子たちのおかげで気付くことができました」

以前と比べて、しっかりと休める時間が増えた星野さん。今や、社内でいじられキャラになっているそうですが、「杜氏だからこそいじられた方がいいと思うし、馬鹿にされた方がいいと思っています」と言い切ります。

それはなぜですか?と問うと、ニコリとほほ笑みました。

「古関さんがそうしているように見えたんです。今は杜氏ではなく米作りをされていますけど、あの時の古関さんが造った新政酒造の酒、めちゃくちゃうまかったんですよね。師匠に近づくためには形から入った方がいいと思うし、その方が楽しい」

2015年、100本の日本酒を並べて利き酒をしている時に出会った新政酒造のエクリュは、今も星野さんの心を掴んで放しません。土田社長の後押しを得て、師匠の背中を追い続けます。

(文:川内イオ 写真:藤原慶)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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